第 一 章

ヴェルフ基金の歴史について』
ハンス・フィリッピ著
ニーダーザクセン年鑑
31巻、1959
ヒルデスハイム、アウグスト・ラックス出版社



第一章


   1866923日、退位させられたハノーファー王ジョージ五世は920日付けの法令によりプロイセンが彼の国土を併合したことにたいして抗議した。(注:1866823日のプラハの講和)にもかかわらず、英国ならびにロシアの宮廷から出された調停の影響の下に、この国王は、翌週、彼に忠誠を誓った役人と軍人を解放し、彼の資産状態を明確にする目的で、プロイセンの政府との交渉のための前提条件を作り出した。交渉は何ヶ月にも渡り、結局1867929日の条約をもって終結した。この条約のなかでプロイセンの王室はいくつかの留保条件を示しながらも、16百万ターレルの補償金を承認した。この補償額は、御料地、伐採や封建君主の権利などの失われた収入ならびに宮殿、庭園と土地の代償としてのもので、というのも、ハノーヴァー家のこれらの対象物が当時の状況を鑑みて、そのままにしておくことができなかったからである。果たして本当に、そしてどの範囲まで、ハノーファー王が王室財産の正当な請求権を有効に主張できたのかについては、概して異論の余地のあるところであった。だが最終的に、プロイセン王ヴィルヘルムの考えていたものよりもはるかに多額の、公平に見積もってハノーファー王の以前の収入を上回る収益がでるであろうところの、補償がビスマルクの助言により算出された。英国の外務大臣スタンレーは、彼がベルリンにおけるハノーファー王室の運命につき彼の政府の無関心をやむをえず認めていたので、ジョージ王にたいして気前の良い交渉方法を助言した。そしてビスマルクは、ハノーファー王が、富裕な英国貴族社会の中でそれ相応のふさわしい地位を得られるような財政状況を作り上げたかったのである。

補償に関する条約の成立とともに、プロイセン政府とハノーファー家との間の戦争状態は終結した。国家資産を英国へと移動させる許可を除いては、ジョージ王は、その消極性ゆえに、現状の追認や王権の放棄に対しての補償さえ要求しなかった後者の王権の放棄については単に、ヘレンハウゼン城ならびにカレンベルク御料地の権利の需要がでた場合に備えるものであった。この補償は今後はハノーヴァー家の譲渡のできない家族世襲財産の確固たる一部分となった。だが、それは当分は利子の受領に限定されていた。なんとなれば、この金額は安全確保の理由で最終的な規定確立まではプロイセンの国債証書の形で置かれたからである同様の方法で、退位させられたナッサウのアドルフは1867918日付の条約に従って、8.8百万ターレルの支払が認められた。

プロイセン政府はこれら二つの条約をもって、戦時に併合した地域における、一年間の期限切れが迫る非常事態宣言を終結させた。領邦議会によるこれらの条約の承認は従ってプロイセン政府により不要と位置づけられた。それにもかかわらず、一つの法案が提出された。なんとなれば、補償額を賄うためには、1866928日付の法令による臨時の軍事債権が適用されるべきだというのであった。首相がこの法案の審議のおりに、国防目的以外の目的には使用しないと確約したにもかかわらずである。1121日に、領邦議会に政府の一通の草案が一通の覚書ともども提出されたあと、予算委員会で政府と野党のあいだで激しい意見の対立があり、反対派代表であるトゥヴェステンは、政府に対し、条約締結の際の適法性に異論を唱えついには不信任動議という事態にまでなった。この審議の間に投じられた問題は、プロイセン自由主義の立憲君主体制内における政治闘争に属するものなので、筆者はここでは取り上げないこととするビスマルクは910日、議会のなかで、政府がこれまで行った政策を理論的に擁護したうえで、条約の締結により、補償がなされた君主をして、将来的に王位継承権の行使の放棄を暗黙の了解とするよう、強く望む意思表示をした。領邦議会の予算委員会によって作られた報告書は次のように説明する。すなわち、補償の許可は、政治的意図が、すべての法的疑念よりも優先して決定されたものであり、金額の多寡の決定は、プロイセンが追求中の国家的目標の大きさ、ならびに、プロイセン王室の品格、の二つが決定的であるべきだ、と。政府の法案はビスマルクの演説ののちに254113で採択された。この補償条約に定められている事項の履行に、どのような方法、手段がとられるかはあくまでプロイセンの内政問題であり、よって条約そのものの有効性が損なわれることはなかったが、議会での討議は、国外に向けて、交渉相手がヴィルヘルム王ではなく、プロイセン国家であるというメッセージを送るものであって、ヴェルフ側の、この条約は国家間の条約ではなく、あくまで両君主間の問題であるという見解とは全く異なるものであった。それだから領邦議会の関与は取り決め違反と感じられた。ビスマルクは、それに対し、補償条約のなかに国益追求としての手段のみを認め、初めからヴィルヘルム国王のジョージ国王にたいする関係は国際関係的政治力学的側面が宮廷外交的人間関係的側面よりも優先されると考えた補償遂行は彼にとって政治的な側面のみでしかなかったすなわち外交政策上では宮廷にたいする干渉への和解的な作用であり、内政的にはハノーファー州の住民の鎮静とかである。

プロイセン領邦議会での話し合いの間にも、ある種のヴェルフ家の正統主義者達は行動を取った。彼らはハノーファーに新しく作り出された状況に照準を当て、緊張をはらんだ国際的な雰囲気の中で、現実よりも危険に見えるようにしたがった。1867年初頭以来、いわゆる「ヴェルフ義勇軍」が結成された。この義勇軍はウイーン近郊のヒーツィングに住んでいた亡命王のやる気は乏しかったが、けれども彼の承認と経済的な支援なくしては存在しえなかった。この義勇軍は有効性は限定的であったので、プロイセン国家にとって本気で相手するほどの敵対者ではありえなかったが、現地の諜報によってベルリンへもたらされた情報をみると、その(義勇軍の)存在そのものが、戦争を起因するであろう様々な憂慮を肯定するものであった。そしてビスマルクでさえも、ハノーヴァーの状況とヴェルフ派の扇動の影響は懸念がないわけではない、ように見えたのである。

彼の王国の使命についての感情的な解釈、ならびに、ジョージ王は取り巻きの助言が悪いと正統主義者のハノーファー人達によってさえも嘆かれた強情が、事態は結局、18682月、ヒーツィングでの国王夫妻の銀婚式の式典で、王国の再興が、願いなどではなく、現実味のあるものとして述べられるという、反プロイセン的なものが色濃く反映された政治表明をもたらしたのである。確かに、その種のヴェルフ派の活動は、18679月の条約締結のときには知られていなかったわけではなかったが、控えめな対応が推奨されていたことからあまり重要視されてはいなかった。ヒーツィングでの政治表明ののち、ビスマルクは、ジョージ王に有利な補償額を提示することにより、その請求権の公的行使を控えてもらうという暗黙の了解を裏切られた。王による補償金の受諾はプロイセンにたいする公然たる敵対行為の停止を保証するものではないことがはっきりしたことと、ジョージ王がプロイセン国家の存続を脅かす方法をとっていることが、条約締結の相手方としてのプロイセンの意に全く沿わないことになっているとビスマルクは考えたのであった。

1868228日付ジョージ王ならびにナッサウ公爵のアドルフに対する補償支払法案に依り32日、一通の国王命令が公布された。それらすべてに基づいて、一八六七年九月二九日付条約の対象物件で、かつプロイセン国家に所属しない(移管されていない)有価物件は補償残高も含め押収されたが、ブラウンシュヴァイク・リューネブルクの連帯家の家族世襲財産分は減額されないままになった。王位継承権の保持ではなくて、その実現への水面下での試みが、差押え決定の誘因となった。一通の国王への上申書と一通の領邦議会への報告書のなかで、プロイセン政府はその措置の理由を説明している。ジョージ王をして1867年の条約から逸脱することになるであろう裁判所での法的争いをプロイセン政府が避けたのは、この差し押さえによって王の資産自体が、すでに準備されている敵対行為の予防と、プロイセン国家に害を加えるような策動に起因する全ての結果に対してある抑止力をもたらすであろうということである。この国王命令の第2項は次のように述べる。押収された物件ならびにそれらからあがる収益から、王にたいしての決算報告なしに、差押えと管理のコスト、ならびに王とその臣下反プロイセン的策動に対する監視と対応の措置にかかる費用を賄うべし、と。所謂ヴェルフ基金はこの条項に依拠する。ジョージ国王がプロイセンとの間に存在する戦争状態が終結したとみなしたということを、王のこの先の態度振る舞いでしらしめてほしいという期待は、以前は補償条約にかけられたが、今ではそれはこの国王命令にかけられた。ヒーツィング宮廷の反応はしかしながら、この想定された見込みに合致しなかった。だから、それゆえ、プロイセン政府が1868年秋の領邦議会にたいして一つの議案を提起するための口実を与えた。その議案はビスマルク自身が1869129日に、執行された押収に関する委員会報告を行ったときに引き続き主張したものである。そして、それに続いて215日に、一片の法律が制定された。それは186832日付の国王命令停止とあわせて、この案件が、命令の形ではなく、法に依拠するものと定めたものである

  同じ日、そして同一の理由づけで、以前は選帝侯であったヘッセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルムの収益の没収(押収)が指示された。国家を危機にさらす画策の肯定的な根拠が現われたのは、ヴェルフの場合に比較してはるかに少なかった。この選挙侯は、宮廷宛てに送付された18689月の陳情書のなかで、彼の正当な要求の保持を文書にて表現し、かつ、彼の国土の併合に抗議したこと以外には、なにも企てようとしなかったのである。この陳情書の執筆者は選挙侯のことを、彼の金について書いたのだという隠された意図にビスマルクは気がついた。ヘッセン選挙侯家の資産状況1866917日現在で、ベルリンで署名された条約で定められていた。それによれば、プロイセンは選挙侯に家族世襲財産と個人資産の使用、ならびに1831年の宮廷資産目録に従って保証された宮廷費を今後も毎年30万ターレルを支払つづけることを確約していた管財人はこの金額(額高)ならびに32.8万ターレルの金額にのぼる家族世襲財産の使用を把握していた。事務経費の控除を行ない、差押え物件にかかっているそのほかの債務を差引き、年間百万ターレルに達するヴェルフ基金のほかに、さらにヘッセンからの35万ターレルが、退位させられた選挙侯家の敵対的な画策の防諜のためにプロイセン政府によって使用できることとなった。

議院での1869126日付(議会での政府当局に対する)質問に答えて、プロイセン政府ははっきりと(この件に関する)、収入と支出は国庫に負担をかけないことを説明した。そして支出に係わることは、「プロイセンに反する画策を政治的に取り締まるために費やされる。その金額の使用は、その性質からして、その公開を控えられるべきである」。

  差し押さえられた財産の管理については、王立管理委員会がそのときどきのハノーヴァー州の州行政長官を長として創立された。管理コストの確認ののち、計上義務のない収入の分配を審議するために、内閣が年間を通じて会議を招集した。内務大臣と外務大臣がそれぞれの割り当ての使用状況に関する申し立て義務から解放されている一方で、その他の部局長はそれぞれの局の彼らの希望を代弁することになっていた。交渉はもっとも強い秘密保持の下に行われ、1873年には帝国宰相がきっぱりと大臣達に、「当然の根拠」に立って、ヴェルフ基金関係するすべての関連事項の機密保持を諄々と申し聞かせた。配当額に関する意見の一致が達成されるやいなや、大臣達はそれぞれ必要に応じて、彼らに割当てされた金額を財務総局から引き出した。外務省では通常、半年分の額を外交機密費管理室に振り込んだ。支出は上級会計局で検査のために作成された書類は記帳されなかった。186948日にハノーヴァーおよびヘッセンの収入から自由裁量で使用できる金が配分されたのが初めてである。外務省と内務省は秘密の政治目的のために合計26.5万ターレルを受け取った。1870は外務目的のために15万ターレルが計上された。結果的に、政治目的のために四分の一が使われ、その一方でその大部分がハノーヴァーとヘッセン州の公的事業ならびに建設計画に浴することとなった。

1870/71年の戦争の間、ヴェルフ基金は、ジョージ王の手先による敵対的策謀への対策としての使用方法はほとんど顧みられなくなっていた。なぜなら諜報活動がもたらした、旧王国領における軍事的劣勢の際に起こりうる局地的社会不安、ないし利敵行為の可能性をより一層考えなくてはならなかったからである。ビスマルクが自由に処理できた26万ターレルの金額は、多岐に渡る使用目的を顧慮してその当時としてもさほど異常なものではなかった。そして、それについてビスマルク批判の文献のなかで度々話題になっている、ドイツの報道を買収することで、それが計り知れない効果を引き起こしたことが適当であったかどうかというのは議論の分かれるところである。ビスマルクが187011月にバイエルンのルードヴィッヒ二世にヴェルフ基金による申し出によって、かの有名なカイゼル文書を作成したかどうかは、さまざまな尽力にも関わらず現在に至るまで、確たる立証をなしえていない

戦争の終結後、外務目的のために要求されたヴェルフ基金の占める割合は飛躍的に増加した。なんとなれば、この基金は、年々拡大していく帝国政策の国益追求のための機密基金として使われだしたからである。戦勝と帝国成立ののち、プロイセンとジョージ王との間の対立の、解決に対する意思表明がなされないことはなかった1871年には既に、十一人のハノーファーの大土地所有者が皇帝に請願という形で、管財人廃止を求めた。ビスマルクは正式には領邦議会の所轄事項であるとして逃げたが、同時に一つのあり得る解決法への門戸を開放した。彼は、ハノーファー州長官シュトルベルク・ヴェルニーゲローデ伯爵宛の1872217日付の布告で、ジョージ王による交渉継続を公式にあきらめさせるとともに、その代わりにエルンスト・アウグストをもって王位につけ、その任に当たらせるという意図であった。ビスマルクが果たしてこの提案に勝算を見出していたかどうかについては、ジョージ王の性格に対するビスマルクの見積もりを疑わなければなるまい

ハノーファーの州長官であったベニクセン卿自らがビスマルク侯爵の近くで力を尽くした。だが、1873323日の会談はなんの結果ももたらさなかった。ハノーファー王家のおかれた政治的状況の変化の展望はとてもいいとはいえないにもかかわらず、ハノーファー側は依然として譲歩の片鱗すらみせなかった