嵐山・平安神宮の桜
と祇園・都おどり
京都に行きました

      

一月に京都の都をどりを予約、三月に東日本大震災があり、自粛しようかと迷ったが、行くことにした。
名神高速道路はガラガラ。日本の大動脈がこれでは日本経済が心配である。
京都は昨年大勢いた外国人客
(特に中国人・韓国人)がまったくいない。観光客は非常に少ない。
桜は、初日咲き初めでしたが、二日目は満開になり、晴天に恵まれ、椿・アセビの花も咲き、最高の京都でした。

平成23年4月4日
 下諏訪 AM6:30発  化野念仏寺・祇王寺・清涼寺(釈迦堂)・天竜寺・嵐山・渡月橋 AM11:30〜PM3:00  平安神宮 PM3:30〜5:30   ホテル PM6:00

化野念仏寺

化野の地にお寺が建立されたのは、約千百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。「あだしの」「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意です。この地は古来より葬送の地で、人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していた8000体の石仏を、明治中期に集め、賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。 西行法師も
  
誰とても
  留まるべきかは あだし野の
  草の葉毎に すがる白露
       と人の命のはかなさを詠んでいる。

もっと広いお寺だと思っていたのでその狭さにびっくり。


祇王寺

現在の祇王寺は、昔の往生院の境内である。いつの間にか荒廃して、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれる様になった。
平家物語の巻頭に、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。・・・・・・・・・・・・と美しく書き出してあるが、更に読み進むと祗王祗女の事が出て来る。これは平氏全盛の頃、平清盛と二人の女性の哀れな物語である。祗王は館を追い出されることになったが、せめてもの忘形見にと、
  
萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草
  いずれか秋に あわではつべき

と障子に書き残して。
祗王
「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。

山野草が咲いている苔むした庭は素晴らしい。

清涼寺(釈迦堂)

清涼寺の前身は、光源氏のモデルとされる嵯峨天皇・皇子の源融(みなもととおる)の山荘「棲霞観」(せいかかん)で、天慶8(945)醍醐天皇・皇子の重明(しげあきら)親王が亡き妃のために新堂を建て釈迦如来を安置した。これが釈迦堂の名前の由来とされる。 本堂(釈迦堂)に安置されている本尊は、日本三如来の一つで三国伝来(インド〜中国〜日本)の生身の釈迦如来として尊祟されている

大きな広いお寺である。

世界遺産
天竜寺

京都五山の第一位であるこの寺は、霊亀山天龍資聖禅寺といい、1239(暦応2)年に後醍醐天皇を慰めるために、足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山を背景とする亀山離宮を禅寺にあらためたのがはじまりである。 天皇が幼少の頃を修学に過ごされた地に、敵味方の別なく南北両朝の戦死者の英霊を慰めること、「怨親平等の精神」もこの寺の開創の目的であった。

枝垂れ桜が満開。椿、ミツバツツジ、サンシュユ、辛夷、ボケが広い庭に咲き乱れている。

嵐山・渡月橋

嵐山というとまず頭に浮かぶのが渡月橋の風景である。平安の初期に亀山上皇が 「くまなき月の渡るに似る」 と感想を洩らしたことから「渡月橋」と呼ばれるようになった。橋の長さは155mある。また南にある嵐山は春の桜、秋の紅葉など景色が見事だ。

八坂タクシーに四葉のクローバーがあると聞いていましたが、初めてみました。


平安神宮

平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。
千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝えるために、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝えるために、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。広大な神苑では、八重紅枝垂れ桜が咲き誇る。特に、南神苑と東神苑がすばらしく、東神苑では尚美館(貴賓館)と池面が彩られるさまは絶景だ。

桜は少し早く、椿とアセビが満開でした。

平成23年4月5日
 ホテル AM9:00 発  青蓮院・知恩院・円山公園・高台寺 AM9:30 〜AM11:00   祇園・都おどり AM11:20〜PM1:40  下諏訪 PM8:00着

青蓮院


蓮院(しょうれんいん)は、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つとして古くより知られ、皇室との関り深い寺院です。
蓮院と聞いて、思い浮かべるのは門前のクスノキの大木です。このクスノキは親鸞の手植えで樹齢八百年、京都市の天然記念物となっている。庭園は室町時代に相阿弥の作として伝えられている。

クスノキはいつ見ても凄い。襖の絵は鮮やか、抹茶の接待もある。

知恩院


知恩院は、全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれたお寺です。
江戸時代元和7年、二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16に徳川家光が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。
知恩院へ来て、まず対面するのが高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大級の三門(国宝)である。
この、三門を潜り御影堂(本堂)へ行くには、目の前の「 男坂」と呼ばれる石段を登るか、右手に造られた緩やかな坂の「女坂」を登るかのどちらかである。男坂は勾配がきつい石段のため、心臓や膝を気にされる人は「女坂」を奨める。

知恩院の七不思議忘れ傘。御影堂正面軒下に名工左甚五郎が魔除けに置いたとも伝えられる傘で、知恩院を火災から守るものとされている。

蓮院と円山公園に挟まれて、なにしろ広い境内に御堂がある。

円山公園

八坂神社の境内に続く円山公園は、中央に池を配した和風庭園。花見の名所で、なかでも祇園枝垂桜の名で知られる大樹は、毎年この花のために京都を訪れる人もあるという。現在の樹は二代目。正式には「一重白彼岸枝垂桜」といい、高さ約12メートル、幹の周りは約2・8メートルもある。もとは八坂神社の境内の一部。野外音楽堂や坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像などもある。

枝垂れ桜は公園内に沢山あり、すべて満開でした。坂本竜馬の前で記念撮影。


高台寺

東山霊山(りょうぜん)の山麓にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたという。
現在旧持仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定されている。
秀吉と北政所を
「霊屋(おたまや)」に祀り、北政所像の下はその墓所となっている。須弥壇(しゅみだん)と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を代表する「高台寺蒔絵」として知られる。開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられる。
丈前庭にある枝垂れ桜と、重関門の西側に大きく枝を広げる「高台寺桜」が有名。

秀吉と北政所を祀る「霊屋」は華麗である。

第139回
 祇園・都おどり

「ヨーイヤサー」の掛け声で始まる祇園甲部の芸・舞妓による舞踊公演は、京の春を代表する催し。明治5年に京都博覧会の特別企画として演じられたのが始まり。京都の四季が、全8景から構成される場面設定で表現されます。

京都・祇園甲部歌舞練場の1階椅子席、それも前から四列目のかぶりつきでした。
観覧前にお茶席にて芸妓さんのお點前を楽しんで、お土産に都をどり特製団子皿ももらいました。
第1景と第8景で披露される踊り手たちの一糸乱れぬ舞姿は、思わずため息が漏れるような美しさ。その他、唄・三味線・囃子などの楽曲、趣向を凝らした演出など、五感すべてで味わう魅力が盛りだくさんの舞台です。1時間の公演時間はあっという間に過ぎ去りますが、その華やかさはいつまでも心に焼きつく光景となる。
 
春花京都名所尽