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3月4日 東京都心23区の昼間人口低下の理由

 下の記事、2月16日完成予定と書いたまま完成させるのを忘れていました。


2005年2月16日完成予定(書いた日は2月14日) 東京都心部の昼間人口比率低下の理由

ポカリさん
 最近都心部で、千代田区を筆頭に昼夜間人口比率が低下してるって記事を見ちゃったんですけど、なんででしょうかしら? でも品川区や中野区では増えてるみたいなんです。
情報化の進展とかで、自宅でも簡単!あら便利!ってかんじで自宅でも仕事が出来るようになって都心部に行く必要がなくなったからですか?

という疑問。

 最近の人口の都心回帰現象やら郊外化の進展に伴う業務機能の分散なんかを考えれば、そんなに不思議な気はしないのだが、一応、データに当たってみたら、まことにそのとおりであった。

次の表の2000年、2005年(予測)で、黄色以外は昼間人口比率が低下した区や市町村。

1995)

2000)

2005)予測値

東京都

124.17

122.05

  119.90

区部

141.03

137.48

133.69

千代田区

   2 732.90

   2 374.42

   2 268.20

中央区

   1 098.41

    897.60

    769.15

港区

    589.18

    525.72

    496.85

新宿区

    292.05

    279.07

    272.23

文京区

    200.25

    194.80

    191.30

台東区

    224.03

    203.56

    200.82

墨田区

    125.46

    119.51

    119.28

江東区

    119.88

    120.67

    120.94

品川区

    142.26

    148.30

    148.40

目黒区

    111.70

    111.62

    104.99

大田区

    102.00

    100.81

    97.84

世田谷区

    88.13

    88.66

    82.85

渋谷区

    285.20

    279.99

    266.26

中野区

    85.81

    87.96

    89.22

杉並区

    81.01

    82.13

    82.16

豊島区

    173.83

    164.71

    156.52

北区

    95.70

    94.48

    93.55

荒川区

    99.16

    97.74

    96.33

板橋区

    90.66

    91.89

    90.33

練馬区

    75.63

    77.55

    76.11

足立区

    85.44

    86.89

    86.16

葛飾区

    81.89

    81.94

    82.08

江戸川区

    80.93

    81.18

    79.04

市部島部

88.97

90.24

91.15

市部

  88.81

90.06

90.93

八王子市

    100.63

    100.31

    97.55

立川市

    111.44

    111.08

    110.02

武蔵野市

    114.03

    112.30

    111.02

三鷹市

    84.22

    88.96

    94.11

青梅市

    88.89

    91.04

    93.22

府中市

    97.41

    97.71

    97.95

昭島市

    88.75

    90.68

    92.57

調布市

    85.29

    87.24

    89.25

町田市

    87.88

    87.75

    87.56

小金井市

    82.06

    83.75

    85.36

小平市

    87.09

    86.27

    85.52

日野市

    85.78

    85.91

    86.07

東村山市

    77.12

    78.85

    80.01

国分寺市

    78.09

    79.61

    81.39

国立市

    98.39

    99.03

    99.94

福生市

    82.70

    84.48

    86.97

狛江市

    66.64

    70.72

    75.05

東大和市

    77.19

    78.93

    80.68

清瀬市

    79.08

    84.37

    90.02

東久留米市

    71.97

    76.48

    80.65

武蔵村山市

    88.51

    89.45

    90.37

多摩市

    82.56

    86.78

    91.47

稲城市

   78.75

    80.22

    82.23

羽村市

    95.50

    96.74

    97.50

あきる野市

    78.60

    83.97

    89.47

西東京市

    77.67

    77.98

    78.34

西多摩郡

91.95

96.43

100.95

瑞穂町

    102.89

    106.35

    109.25

日の出町

   74.84

    81.65

    89.16

檜原村

    82.19

    87.29

    92.54

奥多摩町

    87.42

    89.86

    92.28

島部

100.90

101.18

100.62

そこで、掲示板では、下記のように返事をしておいた。ちょいと書き加えて、再掲載します。

ポカリさん、いい情報をありがとうございます。下記URLの統計を見ると、まさにそのとおりで、1995年から2000年にかけて、都心部の区で低下していますね。

 都心部では、昼間人口が減っています。これが最大の理由で、この背景には、業務機能の分散により都心部の昼間就業者が減って通勤に伴う流入が減ったことや、通学による流入も減ったことが、あげられるでしょう。

通勤に伴う流入が減った背景には、情報化の進展による自宅で働く人が増えたということも若干はあるかもしれませんが、まあ、これはIT信奉者の願望で実際はそれほどではなく、むしろ、業務機能の分散などで、外側の地域で就業の場が増えたためでしょう。バブル崩壊後の景気の悪化で、都心部を中心に雇用自体が減ったこともあげられるかもしれません。

 また、都心部では、景気の後退により不良債権処理などの必要から企業が土地を放出したことや、建造物が老朽化してきたことなどで再開発が進んだが、最近の再開発はオフィスや商業施設だけではなくマンションも建設するがために、都心部における住宅供給量が増え、地価下落でお値段もバブル期に比べれば割安感がありまして、そういったことが理由で、人口の都心回帰現象がみられ、夜間人口が増えています。

 ただし、都心部の場合、夜間人口の増加は昼間人口比率低下の大きな理由にはなりません。なぜなら、都心部の場合、夜間人口の増加は昼間人口の増加の原因にもなるからです。
 従来の人口増加地域である郊外の住宅地区なら、夜間人口が増えても、彼らの多くは外に働きに行くので、昼間人口は増えませんが、都心部の場合は、都心に住んで郊外に通うということはあまりないので、夜間人口の増加は昼間人口の増加にもつながります。都心回帰の担い手は、若者なら金持ちの御曹司かITビジネスやら華々しい稼業で儲けている成金もいますが、お金をもっている中高年齢層が多く、年金生活をするような高齢者は、お芝居見物に行くときや病院へ行くとき以外は自宅にいるだろうから、昼間も家にいる。お芝居見物や病院通いも都心部ですませることができるし。そもそも自動車の運転のできない高齢者にとって、都心部は徒歩または電車で用が足せるから、住みやすいのだ。

東京都による分析もありますので、ご覧ください。下記ページの「東京都昼間人口の予測の概要」をクリックし、出てきたページの「第1章予測結果の概要」というpdfファイルが一番いいと思います。

http://www.toukei.metro.tokyo.jp/tyosoku/ty-index.htm

都心回帰関連ではないが、昼間人口関連の前大論文の紹介をしておきます。→ここ


2005年2月11日 ラクダ肉の生産

キャメルくん:ラクダの肉の生産上位国(2001年)の統計って、わかりますか?

さ〜らまん:FAO統計を調べれば、わかります。これは便利ですよ。世界の農産物統計を調べるときは、いつもこれで調べています。まっ、調べなくても、ラクダとナツメヤシ関係はジオゴロの「えさいらんいーらくだ」のエジプト、サウジアラビアが上位に登場するに決まっていますが。

http://faostat.fao.org/faostat/collections?version=ext&hasbulk=0&subset=agriculture
を開き、
一番上の項目の中から、Livestock Primary
を選んでクリックします。
そして、出てきたページの白い欄で、
地域は、WORLD>
項目は Meat of Camels
要素は Production
年は  2001
を選び、
その下にある Submit To Databaseのボタンを押します。
すると、
あ〜ら不思議、ラクダ肉の国別生産統計(2001年)が出てまいります。
ラクダ肉生産は、エジプト、サウジアラビア、スーダン、モーリタニア、ケニアの順ですね。

ついでに、ラクダ頭数とラクダの乳も調べると(以下、すべて2001年ですが、2004年統計もわかります。
ラクダ頭数は、スーダン、モーリタニア、ケニア、パキスタン、インド、チャドで、エジプトとサウジアラビアは上位ではありません。
ラクダの乳は、サウジアラビア、スーダン、マリ、アラブ首長国連邦、ケニア、エチオピア、チャドの順で、エジプトは上位ではありません。

ついでに、
ナツメヤシの生産は、エジプト、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国、パキスタンの順です。

というわけで、「えさイランいーらくだ」は、ナツメヤシとラクダ肉では使えるが、ラクダの頭数とラクダの乳には使えないことがわかりました。

2005年2月10日 

コンテナくん:世界でコンテナ取扱個数世界第1位、2位(2000年または2001年)の港湾ってどこか、わかりますか?

さ〜らまん:最新統計の2001年または2002年ならわかります。

国土交通省のサイトで、右上の「選んでください」で「港湾関係」をクリックしますと、港湾局のサイトが出ます。
そこで、左下の「統計・データ」をクリックして、
出てきたページの項目の中から「13.世界の港湾別コンテナ取扱個数ランキング」をクリックすると、
13.世界の港湾別コンテナ取扱個数ランキングが出てきます。
それによると、1位ホンコン、2位シンガポールですね。

2004年1月22日 原油価格とOPEC

明日のジョーくん:

 2003年学習院大学経済学部の問題で、「生産国としてのロシアの台頭はOPECの価格決定力を低下させる要因になる―について,中学生が「なぜ 」とあなたに質問してきた場合,あなたはどう説明しますか 中学生が納得するような説明を100字以内で作成しなさい。」というのがあったんですが、僕は次のように答えてみました。どうでしょうか?

「オペックは、加盟国間で石油の価格を決定しているけれど、OPECに加盟していないロシアが石油を安く売ったりすると、石油を他国から買っている国はロシアから買ようになり、価格はオペックの思い通りにならなくなるため。」

さ〜らまん:

 前半がまったくダメです。「加盟国間で石油の価格を決定している」ってのが、そもそも意味不明ですな。
「加盟国が話し合って原油価格を決めている」という意味で書いたのだろうと考えてお答えしますが、ものの値段(価格)というものは、誰かが決めるものではありませんで、需要と供給のバランスで決まるものです。原油価格もまたしかりで、OPECが決めているのではありません。マーケット(市場)における需要と供給のバランスが決めているのです。(*)

 OPECは原油の生産量を調整することによって、価格に影響力をもってきたのです。価格を高くしたい場合は生産量を減らし、安くしてもいいなと考えれば増産するのです。OPECの産油量は、世界全体に占めるシェアが高いから、生産量を増やしたり減らしたりすれば、世界の原油供給量が多くなったり少なくなったりするから、値段も上下するのです。

 「OPECが価格決定力がもつ」というのは、こういうことです。石油危機のときに原油価格が急激に上がったのは、OPECやOAPECが生産量を減らしたからです。

 ロシアの産油量が増えるとどうなりますか? OPECが値段を高くしようとして減産してもロシアが減産しないなら、OPECの生産シェアは低くなり、値段は思い通りに高くならない。

(*)ただし、純粋な意味でマーケットが決めるといえるようになったのは、1980年代半ば以後です。それまでは生産シェアの高かった方々、すなわち、1960年代はメジャーさまたち、石油危機以後1980年代初めまではOPECさまたちのご意向が強く反映し、実質的には、彼らが原油価格を決めていました。その後1980年代半ば以後の原油価格には、バクチ打ちさまたちの意向が大きな影響力をもっています。現実の需要と供給のバランスではなくて、バクチ打ちさまたちの取引量(仮想の需要と供給のバランス)で価格が決まります。それに、いまは、アメリカさまがお怒りになったら怖いご時勢でありますから、OPECもアメリカさまなど欧米諸国の顔をみながら生産量を決めていまして、産油国が産油量を勝手に決められないようになっています。


2004年1月9日 コートジボワールの首都移転

 フクローさんの疑問です。

フクローさん:
 ナイジェリアの首都移転した背景に民族対立があることはわかるのですが、コートジボワールの首都移転の背景がわかりません。

さ〜らまん:
 アフリカの首都移転と言えば、ビアフラ戦争後のナイジェリアで、ラゴスからアブジャへのほか、コートジボワールのアビジャンからヤムスクロへ、タンザニアのダルエスサラームからドドマへ(計画中)の3つで、どれも国土の中央への移転だから、ナイジェリアと同様に、国土の均衡ある発展を狙ったもので、その背景に民族対立があるのだろうと決め付けていたんですが、実はまったく知りません。ナイジェリアのような民族対立緩和を目的とする首都移転ではなく、別の事情があるのかもしれないですね。調べてましょう。

フクローさん:
 お願いします。ところで、ナイジェリアのラゴスからアブジャへは、二次私大で頻出ってことは知っていますが、コートジボワールのアビジャンからヤムスクロへの移転は、試験に出るのでしょうか?

さ〜らまん:
 あんまり出ません。首都移転の背景は絶対に問われないと思います。首都と人口最大都市が異なる例の一つとして都市名だけ覚えておけば十分でしょう。

というわけで、調べるはめになった。

 コートジボワールといえば、つい10年ほど前までは、経済好調で、その繁栄は「コートジボワールの奇跡」とか「西アフリカの黒い日本」(黒人国家の中で珍しく日本と同じように高度経済成長した国というような意味)とまで呼ばれていた(過去形)。そして、その繁栄を築いた指導者は、建国以来長期政権にあったウフエ=ボワニ大統領。

 ところが、その繁栄は、大規模農園におけるカカオ・コーヒーの大量栽培とそれらの輸出によるもの、モノカルチャー経済貫徹万歳政策によるものだったから、1980年代以後、そうした一次産品価格が低迷すると、経済不振に陥る。そしていまや内戦状態、統計によればカカオとコーヒーの輸出で貿易は黒字のようだが、国はどーなっちゃたのか? 内戦。そこに旧宗主国のフランスまで介入して、わけのわからん状態になっている。内戦の経過については、ここなどに詳しい。建国以来のウフエ=ボワニ大統領が生きている間は、経済不振やら彼の強権支配に対する不満は表に出なかったが、彼が死んだ1993年以後、後継者争いというかたちで大混乱、そして内戦。

 ここのpdfファイルでちょいと勉強すると、現在の内戦の直接的な原因は、ウフエ=ボワニ大統領が後継者を育てなかったことと、大統領死後、合い争う後継者たちが政敵を打ち落とすために「イボワリティ」という排他的な考え方を持ち出し利用したことである。それらの背景には、ウフエ=ボワニ大統領時代の悪い部分が噴出していることがあるようだが、そんなことはまあ地理の試験に出ない。

◆ウフエ=ボワニ大統領のやったことで、現在の内戦の背景となること。ウフエ=ボワニ大統領のおらが天下づくり。
(1)大規模農園の労働者として外国人を受け入れ、彼らに二重国籍を与え、コートジボワール国民に組み込んだ。現在の国民の約3分の1が外国人労働者出身。
   →低廉な労働力調達が容易となって、カカオ・コーヒーを低コストで増産ができた。彼らを国民とすることで、政権末期に行われた選挙の票田獲得につながった。
(2)出身民族を優遇し、反対派を粛清した。他の民族に対しては、ポケットマネーを駆使して地域の伝統的指導者と良好な個人的関係を維持した。
   →出身民族の圧倒的な支持により権力基盤が強固となり、他の民族の不満も抑えられた。
(3)軍関係者を行政ポストにつけた。
   →軍の信頼を得て政権が安定する。
(4)フランスと友好関係を保つ。
   →虎の威を借り、国内と旧フランス領アフリカ諸国で、でかい顔ができる。
◆ウフエ=ボワニ後のイボワリティという考え方の登場とその顛末。
 ウフエ=ボワニ大統領死後の主導権争いにおいて使われたのが、コートジボワール人(イボワリティ)という排他的な考え方で、北部地方出身の政敵を選挙から排除したのはいいが、それが、ブルキナファソなど外国出身者が多かった北部地域の民族に対する差別を引き起こすことになり、北部地域の民族はかんかん! 主導権争いがナショナリズムや民族対立・宗教対立(*)と絡み合って、混乱状態になる。さらに経済の不振、それに伴う国防費の抑制や国営企業の民営化などで、軍が弱体化したうえ軍関係者の出向先がなくなって彼らの不満が高まり、結果として軍が国防軍として機能しなくなる。軍は群雄割拠のバラバラ状態。
(*)ナイジェリアと同様に、北部にはイスラム教徒、南部にはキリスト教徒が多い。

 というわけで、首都移転だが、1983年。ウフエ=ボワニ大統領時代、大統領の出身地に首都を建設しようと決めた。決めたときはまだ景気がよかったので、りっぱな大統領官邸や教会を建てたりしたが、首都機能の移転は進んでおらず、首都機能のほとんどはいまも旧首都のアビジャンにある。いまは単なるお荷物だけれども、ウフエ=ボワニ大統領は今も人気があるから、いまも一応、首都。

 国土の中央に移転した点で、ナイジェリアと似ているが、国土の均衡ある発展を目指すためという名目はあっても、単なる大統領の出身地優遇政策の一環、あるいは思い上がり、あるいは、りっぱなものをつくって国民を気持ちいい気分にさせるため、というところだろう。民族対立緩和型首都移転ではない。首都移転決定時に目だった民族対立はなかったし、結果的に考えても、民族対立緩和の機能はまったく果たしていない。「国父の鶴の一声型」首都移転です。

 で、タンザニアのドドマは?

 というと、これは、建国間もないころ、国父としてこれまた尊敬されていた大統領ニエレレさん(1999年死去)の提案が国会で承認されたもので、目的は地域格差(*)の是正。1974年から移転し始めたものの進まず、1996年に議会のみ移転したが、他は移転せず、首都はダルエスサラームのまま。これも「国父の鶴の一声型」だが、ニエレレ大統領の出身地はビクトリア湖近くの村で、ドドマとはだいぶ離れている。ニエレレさんは、ウジャマーの建設などの社会主義的政策で有名で、その理想はうまくいかなかったけれど、偉大な人物です。ウフエ=ボワニとは人物の出来が違うから、出身地に首都をもっていくなどという破廉恥なことをするわけがない(もっていきたくても、ヤムスクロと違い、ニエレレさんの出身地の村はヴィクトリア湖の近くで、国土の端っこだから移転に大儀がありませんが)。ドドマは国土の中央にして、国土を南北に縦断する道路と東西に横断する鉄道・道路の交差点にあり交通の要衝です。
(*)経済機能や都市機能が海岸部のダルエスサラームやザンジバルに集積し、内陸部の開発が遅れていること、たぶん。

というわけで、コートジボワールもタンザニアも、首都移転は「国父の鶴の一声型」ではありますが、目的は、狙いは、大儀は、国土の中央に首都をおくことによる「国土の均衡ある発展」にありましょう。

以上、例によってかなりいいかげんな説明。首都移転について詳しく知りたい方は、ここの山口広文さまの論文(pdfファイル)を見てください。

◆首都が人口最大都市でない主な国

国 名

首 都

首都より人口の多い大都市

備 考

中国

北京

上海

多核型。上海は経済中心。

ベトナム

ハノイ

ホーチミン

二極型。ホーチミンは経済中心。

インド

デリー

ムンバイ

多核型。

パキスタン

イスラマバード

カラチなど

カシミールを含む国土の中央に首都移転。計画首都。

スリランカ

スリジャヤワルダナプラコッテ

コロンボなど

郊外に首都移転。計画首都。

トルコ

アンカラ

イスタンブール

国土の中央に首都移転。

ナイジェリア

アブジャ

ラゴスなど

国土の中央に首都移転。計画首都。

コートジボワール

ヤムスクロ

アビジャンなど

国土の中央に首都移転。計画首都。

南アフリカ共和国

プレトリア

ケープタウンなど

多核型。三権分立でプレトリアは行政府所在地

スイス

ベルン

チューリッヒ、ジュネーヴなど

連邦制の国で多核型。

カザフスタン

アスタナ

アルマティなど

国土の中央へ首都移転。

カナダ

オタワ

トロント、モントリオールなど

連邦制で二極型。2地域の中間。

アメリカ合衆国

ワシントン

ニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴなど

連邦制で2地域の中間。計画首都。

エクアドル

キト

グアヤキル

二極型。グアヤキルは経済中心。

ブラジル

ブラジリア

サンパウロ、リオデジャネイロなど

国土の中央へ首都移転。計画首都。

オーストラリア

キャンベラ

シドニー、メルボルンなど

連邦制で二極型。2大都市の中間。計画首都。

ニュージーランド

ウェリントン

オークランドなど

国土の中央。

多核型:複数の大都市がある国(旧大陸の面積の広い国に多い)
二極型:二大都市が突出している国(新大陸の面積の広い国に多い)


2004年12月16日 フィリピンの識字率

 ソウリーくんからの疑問です。さ〜らまんは合の手を入れているだけで、ソウリーくんが1人で勉強してます。

ソウリーくん:フィリピンの女性の識字率はけっこう高いですね。少数派にイスラム教徒がいることは影響ないんですか?

さ〜らまん:フィリピンのイスラム教徒の数は、全住民の5%にも満たないから、考慮しないでいいでしょう。イスラム教徒の多い地域では男女の差がちょいとありますが。

ソウリーくん:それにしても高いですね。男性92.6%、女性92.7%です。発展途上国にしては異常に高いんじゃないですか? 植民地時代にアメリカ合衆国が英語教育に熱心だったと聞いたことがありますが、その影響でしょうか?

さ〜らまん:
それもあるでしょうね。フィリピンの大学進学率はかなり高くて、たとえば日本に興行資格で出稼ぎに来ている女性にだって、大卒の人がかなりいると思いますよ。

ソウリーくん:高等教育就学率(大学・専門学校)を調べたら、フィリピンは31%で、韓国82%、日本49%よりは低いが、タイ37%、モンゴル35%、マレーシア27%、香港26%と同じレベルで、インドネシア15%、中国13年、インド11%、バングラデシュ6%などよりもずっと高いですね。平均就学年数という統計もありますが、それを見ると、韓国10.8年、日本9.5年で、フィリピンは8.2年だ。インド5.1年、インドネシア5.0年、スリランカ6.9年、タイ6.5年、中国6.4年、バングラデシュ2.6年、マレーシア6.8年などよりも長い。フィリピン人は教育熱心なんですね。

さ〜らまん:そういうことでしょうね。なお、識字率だけ見ると、にフィリピンに限らず、東南アジア諸国はけっこう高いですよ。

ソウリーくん:あ、本当だ。東南アジア・南アジアの女性の識字率を見ると、フィリピン93%、スリランカ90%、シンガポール89%、ベトナム87%、マレーシア85%、インドネシア83%、ミャンマー81%、カンボジア59%、ラオス51%、バングラデシュ31%です。インドは40%ぐらいみたいです。東南アジアではカンボジアとラオスを除くと軒並み80%以上、南アジアではスリランカがなぜか高いですね。

さ〜らまん:なぜでしょうねえ。社会主義的な政策をとって識字率向上に努めたせいか、あるいは仏教国だからお経を読むためにむかしから読み書き能力を重視してきたのか?よくわかりませんが。

ソウリーくん:あれ? インドネシアはイスラム教徒が多いのに、女性の識字率が83%もある。男性の97%に比べると低いけれど、「イスラム教の国は女性の識字率が低い」と決め付けるわけにはいかないんですね。

さ〜らまん:そうですね。中央アジアのイスラム教国もかなり高いです。あちらの場合は社会主義時代の政策によるのでしょうが、インドネシアはどう説明しましょうか? えーと、「東南アジアはいなかイスラムだから」、じゃないですか?

ソウリーくん:いなかイスラム?

さ〜らまん:西アジアのイランとかサウジアラビアみたいな筋金入りのイスラムじゃないから。田舎イスラム諸国の場合は、イスラムだからと考えると説明できないことがけっこうあるという意味で。

ソウリーくん:田舎イスラムですか。それって、すっげーいいかげんな説明だと思うんですが、なんとなくわかりますねえ。今見たら、イスラム教徒の多い国なのに、600万頭も豚がいますよ。

さ〜らまん:あ、それは中国系の人が飼っているんです。華人が5%ぐらいいますから。ジャワ島以外にはちょこちょこキリスト教徒もいますし。イスラム圏以外のマレー・ポリネシア系の世界では、たいてい豚を飼ってて、祭りのときのごちそうにします。まれに豚肉を食べるイスラム教徒もいることはいるようですけど、田舎イスラムでも、豚肉を食するイスラム教徒はきわめて少ないってことにしといてください。

ソウリーくん:えーと、もとに戻して識字率の話をまとめると、東南アジアの場合、たいていの国は識字率が高く、低い地域であってもそれはイスラム教だからってわけじゃなく、経済水準が低いとかいう別の要因によると考えていいようですね。フィリピンでイスラム教徒の多い地域の識字率が低いのも経済的理由のほうが大きいかもしれませんし。

(参考)10歳以上人口の性別識字率の推移(フィリピン)
       男性 女性  男性−女性
1939年   54.3  43.2    11.1
1948年   62.8  56.9     5.9
1960年   73.6  70.6     3.0
1970年   84.6  82.2     2.4
1980 年    データなし
1990年   93.7  93.4     0.3
上のデータは前にDLしておいたものですが、どこからパクったかわからなくなりました。

(参考)世界の主な発展途上国の識字率(下表より作成)


(参考)世界の主な発展途上国の識字率(男女で差がかなり大きい国は黄色、差が小さい国は水色)

COUNTRY
(★イスラム教徒の割合の高い国)

ADULT LITERACY RATE
2000-2004 (%)

YOUTH LITERACY RATE
2000-2004 (%)

Total 

Male 

Female Total Male Female
 National estimates(related to 1995-2004 national censuses or surveys)
 Self declaration

 CHINA

90.9

95.1

86.5

98.9

99.2

98.5

 PHILIPPINES

92.6

92.5

92.7

95.1

94.5

95.7

 THAILAND

92.6

94.9

90.5

98.0

98.1

97.8

★PAKISTAN

41.5

53.4

28.5

53.9

65.5

42.0

★QATAR

84.2

84.9

82.3

94.8

94.1

95.8

★SYRIAN

82.9

91.0

74.2

95.2

97.1

93.0

★TURKEY

86.5

94.4

78.5

95.5

97.8

93.2

★EGYPT

55.6

67.2

43.6

73.2

79.0

66.9

★TAJIKISTAN

99.5

99.7

99.3

99.8

99.8

99.8

TURKMENISTAN

98.8

99.3

98.3

99.8

99.8

99.8

 CYPRUS

96.8

98.6

95.1

99.8

99.7

99.8

 Educational  Attainment proxies
★MALAYSIA

88.7

92.0

85.4

97.2

97.2

97.3

 Not specifie

 MONGOLIA

97.8

98.0

97.5

97.7

97.0

98.4

 VIET NAM

90.3

93.9

86.9

NA

NA

NA

 SINGAPORE

92.5

96.6

88.6

99.5

99.4

99.6

★BRUNEI

93.9

96.3

91.4

99.1

99.0

99.3

 INDIA

61.3

NA

NA

NA

NA

NA

★IRAN

NA

83.5

70.4

NA

NA

NA

 UIS estimates (July 2002 Assessment)
★INDONESIA

87.9

92.5

83.4

98.0

98.5

97.6

 LAO

66.4

77.4

55.5

79.3

85.8

72.7

 CAMBODIA

69.4

80.8

59.3

80.3

84.5

75.9

 MYANMAR

85.3

89.2

81.4

91.4

91.6

91.1

★BANGLADESH

41.1

50.3

31.4

49.7

57.8

41.1

 NEPAL

44.0

61.6

26.4

62.7

78.1

46.0

 SRI LANKA

92.1

94.7

89.6

97.0

97.2

96.9

★BAHRAIN

88.5

91.5

84.2

98.6

98.4

98.9

★YEMEN

49.0

69.5

28.5

67.9

84.3

50.9

★OMAN

74.4

82.0

65.4

98.5

99.6

97.3

★KUWAIT

82.9

84.7

81.0

93.1

92.2

93.9

★UAE

77.3

75.6

80.7

91.4

88.2

95.0

★SAUDI ARABIA

77.9

84.1

69.5

93.5

95.4

91.6

★JORDAN

90.9

95.5

85.9

99.4

99.3

99.5

 ISRAEL

95.3

97.3

93.4

99.5

99.6

99.4

★LIBYA

81.7

91.8

70.7

97.0

99.8

94.0

★TUNISIA

73.2

83.1

63.1

94.3

97.9

90.6

★ALGERIA

68.9

78.0

59.6

89.9

94.0

85.6

★MOROCCO

50.7

63.3

38.3

69.5

77.4

61.3

★KAZAKHSTAN

99.4

99.7

99.2

99.8

99.8

99.8

★UZBEKISTAN

99.3

99.6

98.9

99.7

99.7

99.6

Source of Population Data: UN Population Division, The 2002 Population Revison, Year 2002 Estimates.

出典:ユネスコの
    サイト

(参考)フィリピンの地域別識字率
Literacy Rate of Household Population 10 Years Old and Over by Region and Sex: 2000

              Region                          Literacy Rate       
           Both Sexes                         Male                     Female        
  Philippines 92.28 92.10 92.47
     NCR 98.14 98.17 98.11
     CAR 90.51 90.90 90.11
         I   Ilocos 95.23 95.41 95.04
        II   Cagayan Valley 91.75 91.43 92.08
       III   Central Luzon 94.80 94.83 94.76
       IV   Southern Tagalog 94.01 93.95 94.07
        V   Bicol 92.69 92.38 93.01
       VI   Western Visayas 93.02 92.45 93.58
      VII   Central Visayas 91.65 91.47 91.83
     VIII   Eastern Visayas 89.92 88.79 91.08
       IX   Western Mindanao 85.25 85.30 85.21
        X   Northern Mindanao 91.40 90.73 92.09
       XI   Southern Mindanao   90.15 89.79 90.52
      XII   Central Mindanao 87.03 87.05 87.01
     XIII   Caraga 91.99 91.40 92.61
     ARMM(*) 68.73 69.75 67.74
(*)AUTONOMOUS REGION OF MUSLIM MINDANAO(NINE IN EVERY TEN PERSONS WERE MUSLIMS)

Source: NSO, 2000 Census of Population and Housing

一番下の統計は、フィリピン国家統計局サイトのこのページからパクりました。そのサイト内のこのページにも詳しいデータがあります。


2004年12月15日 シンガポールには、なぜか空港がいっぱいあるけど、なぜだ!

 旗本勘定奉行くんからのマニアな疑問です。

旗本勘定奉行くん:地図帳でシンガポールの地図を見ていたら、空港が3つもあるんですが、まさか国内便ってことないですよね。

さ〜らまん:ま、まさか。マレーシアなど周辺国への発着便のある空港じゃないんですか? 調べてみますね。

 というわけで、調べさせられるはめになった。

で、空港だが、Singapore (Shaded Relief) original scale 1:150,000 CIA 1994 (850KB)(一部を下で使わせていただきました)を見たら、東京都23区または淡路島ほどのこの小さい島国に、チャンギ国際空港のほかに4つ、合計5つも空港があってびっくり仰天。

 けっこう調べがついたから、表に示します。4つのうち1つは、マレーシアへのフライトは1日1便あるだけの空軍と民間の共用空港で、残りの3つは空軍専用の空港(うち、1つは先代の民間空港)でした。さらに、いまは再開発されて住宅地になっていますが、先々代の民間空港の場所も確認できました。

空港名 英語名称 どんな空港か
チャンギ国際空港 Changi Airport 1981年に開港した国際空港。24時間運営されるアジア太平洋地域のハブ空港。
1975年に建設開始。用地の半分以上は、輸入した土を使い湿地を埋め立てたもの。
セレター
空港
Seletar Airport 空軍基地の中にある。空軍と民間の共用空港。民間便は1日1便、マレー半島の東の観光地、ティオマン島へのフライトのみ。
1929年開港。シンガポールで最も古い空港。
パヤレバ空港 Paya Lebar Airport 空軍基地。
1955年8月、国際空港として開港。1975年、チャンギに新空港建設を決め、1981年に軍専用の空港となる。
センバワン
空軍基地
Sembawan Air Base 空軍基地。基地内に温泉がある(温泉は、1999年以後、昼間は一般にも開放されている)。
イギリス海軍基地内の空港だったが、1971年にシンガポール空軍に引き渡され、1983年からヘリコプター専用の空軍基地になる。
テンガ
空軍基地
Tengah Air Base 空軍基地。
1932年にイギリスが建設。1971年にシンガポールに引き渡され空軍基地となる。FPDA(5ヶ国防衛協定FivePowerDefenceArrangement:イギリス, オーストラリア, ニュージーランド, マレーシア, シンガポール) を締結した1971年から(1976年まで)イギリス・オーストリア・ニュージーランド軍の基地。
   Kallang Airport シンガポールで2番目に古い空港。1937年6月12日開港。1955年にパヤレバ空港が開港し、閉鎖


2004年12月12日 第二次世界大戦前の油田開発の歴史と石油の長距離輸送手段

疑問:バクー油田は第二次世界大戦前に開発された油田でしょうが、その頃、原油はどうやって輸送していたのでしょう? パイプライン?タンカー?鉄道?

お答え:現在なら、原油の長距離輸送は、パイプラインかタンカーに決まっていますが、それがなければ鉄道でしょうね。調べてみます。

調べてみます1:石油の長距離大量輸送にタンカーやパイプラインが使われるのはいつからか。

わかったこと:
 最初は、石油を小さな樽に入れて帆船で運んだ。1861年に、樽に入れた石油が初めて大西洋を渡り、アメリカ合衆国からイギリスに輸送された。
 1868年に、世界最初のパイプライン(送油管)が、アメリカ合衆国ペンシルベニア州で建設された。長さ約10キロの木製の丸いパイプであった。
 1886年に、世界初のバルクタンカー(bulk tanker)が開発され、アメリカ合衆国からイギリスへの石油輸送に使われた。

 この世界初のタンカーは、石油切手収集家の森井英孝さまのWebサイト「切手で語る石油文化の“光と影”」によると、1885年に建造された帆船タンカーで、名前を「グリュックアウフ号」というそうです。

 調べてみます2:近代的な油田開発はいつから始まったか?

わかったこと:本格的かつ近代的な油田開発の始まりは、アメリカ合衆国ペンシルベニア州の1859年が最初とされている。

 神戸大学電子図書館システムの新聞記事文庫で、国民新聞 1923.3.24-1923.4.9 (大正12)掲載の記事「石油中心の国際競争 (一〜十四) 」(この記事は、80年前に書かれたものだが、現今の石油を巡る各国の争いは当時とあまり変わっていないことがわかっておもしろい)を読むと、そこに、「石油の生産が商業化した処は羅馬尼が最も古い一千八百五十七年である次は米国で一千八百五十九年次は伊太利の一千八百六十年加奈太の一千八百六十二年露西亜の一千八百六十三年ガリシアの一千八百七十四年と云う順序で日本は一千八百七十五年からだ」と書いてある。

たとえば、曰く、、

世界の国と云う国は石油一滴でも多く得るために自己そのものの血を流し合うことさえ厭わないのだ。地球の血!石油の一滴は実に恐ろしい魔力を持っている、人間にそれを絞り取らせる報償、代償として人間の血を要求しているのである、人間は石油の一滴のために国の名によって手と口によって相争うことを辞せぬのである、それ程、石油の一滴は人と人との争い、国と国との争いの今日の要素をなしているのである、石油を除外して今日の世界を知ることは到底出来ない、この地球の血を他にして今日の国際関係を知らんとしても、それは無理な話であるのだ。
また、たとえば、曰く、
今や石油問題は現代の世界政治家の最も大に考慮をめぐらす問題である殊に欧羅巴の政治は全く石油化していると言ってよい、その政治は石油が中核を為している、欧洲政治の局面にあっては如何なる国の首相も、石油を持たない国に対して一瞥だも与えないのである、欧洲政治家の常に注意し考慮を不断に廻らす所は石油のある国で、石油を産しない国に対しては毫も国際政治という外交の駒を動かそうとしないのである、現に欧洲の政治家は注意を波斯湾から金角湾に至る中東一帯の地、それに関係ある国々に、集中しているではないか、これはこれ等の地一帯が石油に取って無尽の宝庫であるからだ、ゼノア会議が決裂と云う暗礁に乗り上げたのも、主因は石油に対する各国の陰謀の為す業であった、ソヴィエット・ルシアの外交の中軸は石油で、バクー、高架索地方の油田を世界にひけらかして、垂涎三千尺の相手国から或ものを搾取しようとしている、豊富な油田の持主であるルーマニヤ、ポーランドの如きも其相伴を蒙って、欧洲政治、国際外交の重要な要素となっている、殊に波斯は広漠なる油層の持主で、豊富な油田に満ちて居るというので、何れも食指を動かし国際政治紛糾の種子となっている、英米石油競争の中心となっている、アングロサクソン統一の声の下に、大きな同族闘争の大渦巻を起しているのである、斯くの如く、石油問題は欧洲政治界に於ける実に外交の中枢を為している、中枢と云う言葉が誇張に過ぎるならば、その外交の主題を為していると言って置いてもよい、何れにしても、英米競争の中心はこの石油問題である。

 これを、年表形式で書き、その他わかったこと、もろもろを書き加えると、

 1857年 ルーマニアのプロエシュチ油田が油田開発が商業化した最初。
 1859年 アメリカ合衆国ペンシルベニア州北西部タイタスビル南郊のオイルクリーク(油の小川)と呼ばれていたところ(Titusville、オイルシティの北北東、エリー湖の南方)で、エドウィン・ドレーク大佐が蒸気エンジンを使う掘削機械で原油を掘ることに成功(ドレーク油田)。近代石油産業の誕生。
 1860年 イタリア。シチリア島のジェラ付近か?
 1862年 カナダ。
 1863年 ロシア(北カフカス、黒海北西のクラスノダール地方)。
 1974年 ガリチア(カルパチア山脈の北側のポーランドとウクライナにまたがる地域)。
 1875年 日本で商業化した最初(中野寛一による)。
        1873年 静岡県相良油田開坑。日本初の機械による採掘。石坂周造による。太平洋側で唯一の油田。
        1874年 新潟県新津油田開坑。中野寛一による。

 で、ドレーク油田を開発したドレーク大佐という人はどんな人かというと、石油切手収集家の森井英孝さまのWebサイト「切手で語る石油文化の“光と影”」によると、なんと、実は大佐でもなんでもなく、フリーターみたいなもんだったそうです。

調べてみます3:バクー油田の開発はどのくらい古いのか。

わかったこと:本格的開発は1870年代からだが、油田採掘の歴史はきわめて古い。ロシア革命前の20世紀初頭には、世界の約半分を生産する世界最大の油田であった。

 バクーの石油はきわめて古くから利用されており、紀元前以来のゾロアスター寺院の火に使われ、マルコ・ポーロの東方見聞録にも登場する。
 本格的な油田開発は、帝政ロシアに併合(1806年)後の1813年からで、以来1860年代末まで、採掘は帝政ロシア政府の独占下にあって、手掘りで汲み出していた。
 1871年に規模の大きい油井が建設され、1872年に帝政ロシア政府が独占を放棄。以後、主に外国資本による私企業が参入し、開発が本格化する。
 ノーベル賞で有名なノーベル3兄弟が、1875年、小さな製油所の利権を手に入れ、1879年に「ノーベル・ブラザーズ石油開発会社」を設立。ノーベルとバクー油田については、石油切手収集家の森井英孝さまのWebサイト「切手で語る石油文化の“光と影”」がいい。1885年にフランスのロスチャイルド家も参入、シエルもからんで、産油量が急増し、1901年にピークを記録した。
 その後ストライキとロシア革命で減ったが、1920年からソ連のもとで復興し、1930年に再び1000万トンを回復し、1940年には2218万トンを生産。

 バクー油田の産油量:
  1813年
  1818年       3,840トン
  1872年    2万6,100トン
  1875年   10万トン以上
  1884年   146万トン
  1890年   374万トン
  1901年 1,098万トン(世界生産の51%)

調べてみます3:バクー油田の石油は、開発当初、どうやって運んでいたか。

わかったこと:最初は、船に樽を積んでカスピ海を北上し、それから小船に積み替えてボルガ川をさかのぼった。カスピ海のタンカー輸送は1878年からで、その後すぐにボルガ川→バルト海経由のタンカー輸送も可能になった。黒海への鉄道も完成し、利用された。1907年には、パイプラインが黒海沿岸のグルジア共和国バツーミとの間に完成した。

ああしんど。

 というところで、体力がこときれた。しんどいので、やめます。

愉快だったこと。

1.バクー油田は偉大なり。バクー油田がなければノーベル賞も生まれなかった。バクー油田がなければ、ヒットラーのドイツもソ連に攻めなかった(かもしれないことは、スマトラ・ボルネオに油田がなければ、大日本帝国が蘭領東インドなどを攻めなかったかもしれないことに似ているかもしれない)。

2.バクー油田は偉大なり。利用がきわめて古い。ゾロアスター教を生んだ(かもしれない)。古いといえば、新潟の「くそうず」だが、こちらは宗教を生まなかった。

3.古いといえば、ついでに、ルーマニアのプロエシュチなどカルパチア周辺の油田開発が結構古いとわかった。カルパチアからカフカスをへてカスピ海周辺、そしてシンチヤンへと、さらには、渤海、曲がってターチン、あるいは、新潟、秋田へと、油田の帯がありそう(かも)。

 なお、現在、この地域の石油輸送に関しては、チェチェンからみや、アゼルバイジャン・アルメニア紛争がらみ、あるいは、中央アジア諸国の胸算用とアメリカさまの意向やらで、おおいに注目され話題いっぱいなのだが、それはさておき、篠原建仁さまの手になる「外務省調査月報 2004/No.1『南コーカサス地域のエネルギー輸送―原油及び石油製品を中心に―』(pdfファイル)」によると、バクーの油田の石油輸送には、タンカーとパイプラインに加え、鉄道も利用されているようです。鉄道はバクーから黒海沿岸のバツーミとポチを結んでいる。そこにあった図をパクっておきます。



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