彼の亡くなった部屋。右奥に小さなベッド。
アイスレーベン
2010/05/23
マルクト広場にあるルターの肖像
生家
写真:アイスレーベン。1550年頃の旧市街と新市街。小さい方の城壁内が旧市街。
番号は順に
1. アンドレアス教会
2. ペトリ教会
3. ニコライ教会
4. アンネン教会
5. 旧墓地(「カンポ・サント」)
6. 旧市街の市役所
7. 新市街の市役所
8. マルティン・ルターの生家
9. マルティン・ルターの没家(亡くなった家)
10. マンスフェルド家の町城、町はずれ(旧城)
11. マンスフェルド家の町城、町中(薬局、住所はMarkt34)
12. マンスフェルド家の町城、後背地(住所はMarky58)
13. 市壁13世紀
14. 市壁16世紀
昔の地図がルターのステルベ・ハウス(ルターが亡くなった家)に展示してありますが、生家は町のはずれだけれども、亡くなったのは一等地でした。最後の説教をしたのが、たまたまアイスレーベンのアンドレアス教会で、その教会の隣の家で亡くなったのです。
地中深くから採掘した鉱石を巻き揚げ機で引揚げ、
ザクセンは昔から鉱山業が盛んな土地柄ですから、ハンスは粗銅生産業を始めたわけですが、いまでも北西郊外のマンスフェルドの方向へ行くと、大きなボタ山が積まれているのを見ることができます。
つまり、ルターはアイスレーベンで生れたが、一年後には家族と一緒に領主マンスフェルド伯爵の住む鉱山町-マンスフェルドに引っ越したのです。
まえにマルティン・ルターのページで
マルティン・ルターは、1483年11月10日、中部ドイツのザクセン選帝侯領アイスレーベンに生れた。
父親ハンスは農民であり、マルティンが生れた翌年には粗銅生産業を始め、そこそこの社会的地位を得た。
と書きました。そのアイスレーベンにやってきました。
このwebsiteのなかでルターに関係するページは
マルティン・ルター
ルターの宗教戦争
玉城康四郎/テレサ/ルターのB
アイゼナッハ
ヴィッテンベルク
では皆様、ご機嫌よう。
この家でマルティン・ルターは亡くなった。1546年2月18日
ルターの亡くなった家
溶鉱炉で精製していたのです。喰うに困らない、というよりも豊かな生活だったのでしょうね。だから、エルフルト大学で勉学することができました。