1547 4月、北ドイツのミュールベルクの戦いで皇弟フェルナントと
      モーリッツはシュマルカルデン同盟軍を破り、ザクセン選帝
      侯ヨハンを捕虜とし、同盟は崩壊した。(旧教が勝った)皇
      帝カールは独裁者となり、息子のフィリップを帝位継承者に
      選ばせ、ドイツとスペインの結合を強化した。これを見て、
      モーリッツは再度新教側に寝返りする。

1552 モーリッツは新教都市マグデブルクを討伐するために皇帝カ
      ールから預けられていた軍隊を逆に皇帝討伐の目的に使い、
      一方フランスと同盟を結び、北ドイツ新教諸侯とともにオー
      ストリアに進軍し、インスブルックに居た皇帝カールはティ
      ロルに逃れる。

      パッサウで和解交渉が始まり、モーリッツは三転、仲介者と
      して活躍した。

1555 アウグスブルク宗教和議。その内容は、

           1. ルター派の新教諸侯、都市に信仰保持の自由を認め、

           2. 宗教は、その地の統治者の宗教によって決定される原則
           。同時に、宗教的領域における世俗権力を是認した。


 ヘッセン方伯フィリップが、宗教上の信念に優先して自分の愛情を尊重したこと、また、ザクセン侯モーリッツが、宗教上の信念はそっちのけで、終始、風見鶏の立場を採りつづけたことを観察すると、実際に戦った人たちは、宗教問題の本質など、じつは、自分にとっての最優先問題ではなかったことを雄弁に物語っている。

 それはそれとして、ルター派の存在が認められたのであるから、両派共存体制ができあがったことになり、これで決着かと思われたが、そうはいかなかった。

ル タ ー の 宗 教 戦 争

ルターが引き金をひいた宗教戦争は124年間続いた。

 原因は、カトリックが、神秘体験Aは神を見ることであり、それは神そのものであり、本質的にキリストの体験と同じである、と錯覚したことにあり、アウグスティヌス以来誰もその間違いを指摘しなかったことにある。

 ルターは、はからずも内面の探究によって、神秘体験Bにたどりついた。Bにしか辿りつけなかった、と言ってもよいかもしれない。だが彼は、神秘体験Bを疑うことのできない直覚的真実であることを認めた。疑って疑って疑った結果、これを真実と認めざるをえなかったのである。

 カトリックの主張する聖霊と三位一体は、常人が簡単に到達できない神秘的な奥義であると信者は教えられ、それを盲目的に信じてきた一般人にとっては、心の底にじつは反対に罪悪の心がある、その根源が神秘体験Bであると教えるルターの説のほうが分かりやすかったであろう。

 こうしてカトリックは、神秘体験Aを人間が到達できる唯一の体験である、これこそ絶対的な価値の基準であると主張し、逆にプロテスタントは、神秘体験Bが人間の到達できる唯一の境地であるとし、これを聖書が教える原罪である、と認定した。そしてこの体験に絶対的な価値の基準を置いた。両者はともに人間の到達できる究極の体験を理論の根拠としたものだから、いきおい戦いは絶対と絶対との戦いとなり、それはおよそ妥協というものの考えられない、終わることのない戦いとなった。つまり、絶対的な価値基準があると信じる人たちが、お互いにその正当性を主張して戦う戦争となったのである。

 これが、この宗教戦争の本質である。

 この宗教戦争は、時期的にいって、おおまかに4段階に分けることができよう。

 (なお、以下の年表は、『世界の戦争・革命・反乱』自由国民社を基本とし、一部修正を加えてある)

第一期 (ドイツ国内、ルターの存命中)

1522 小さい封建領主となっていた没落階級の帝国騎
      士が、教会領であるトリーア大司教国を攻撃し
      て、教会の手から奪回することを目論んだ。
     (失敗)

1524 農民戦争が始まる。

1525 シュヴァーベン地方で農民が「十二ヶ条」から
      なる農民綱領を起草して農民会議を開き、キリ
      スト教同盟を結成したが、シュヴァーベン軍に
      よって鎮圧された。ヴァインガルテン協定。
     (農民の敗北)

      フランケン地方で、“輝く光の農民団”を結成
      し、ヘルフェンシュタイン城を攻撃し、伯爵以
      下を田楽刺しにする。(農民の勝利) そのう
      ちシュヴァーベン同盟軍が北上して、農民団を
      鎮圧した。結局農民は、拠点都市であるローテ
      ンブルクが陥落して鎮圧された。

      チューリンゲン地方ではミュンツアーが貧農、
      鉱山夫を集めて蜂起したが、ヘッセン方伯に攻
      撃され、フランケンハウゼンの戦いで壊滅した
      。ミュンツアーは拷問の末、処刑された。

1530 皇帝カール五世がアウグスブルク帝国議会で、
      新教諸侯にローマ教会への復帰命令を出したこ
      とにより、内戦が始まる。

1531 ザクセン選帝侯ヨハンとヘッセン方伯フィリッ
      プが中心となり、六諸侯と十帝国都市が集合し
      て、シュマルカルデン同盟を結成。シュマルカ
      ルデン戦争を開始した。皇帝軍は当初劣勢であ
      ったが、

1541 フィリップが重婚事件を起こし、戦線から脱落
      したため、形勢は逆転した。

1544 皇帝はフランスとクレピーの和約を結び、トル
      コとも休戦し、教皇パウルス三世とトリエント
      公会議を開催することを決定した。


1546 ザクセン侯モーリッツが皇帝側に寝返りし、ル
      ターが
2月に亡くなった。軍事的、精神的な指
      導者を失って旧教側が有利となり、

画題:Titian
          "Emperor Karl
X" 1548
         Erich Steingraber
          "The Alte Pinakothek Munich"

         Scala/Philip Wilson 1985