1574 血みどろの争いが繰り返され、王権は弱まり、シ
      ャルル九世も疲れ果てて死んでしまう。24歳であ
      った。

      王弟アンリが即位し、アンリ三世となる。ヴァロ
      ワ王家最後の王であった。第三勢力が現れた。都
      市の富裕な市民や高級官僚でありカトリック信者
      であったが、国家の運営に固有の論理があること
      に気づいていた。

1585 第八次戦争が三人のアンリの間で戦われる。3人と
      は国王のアンリ三世、ギーズ公のアンリ、ブルボ
      ン家のアンリである。アンリ三世はまず、ギーズ
      公と組んでユグノーの弾圧を行った。だが、全フ
      ランス人の王たるアンリ三世は、ギーズ家の強引
      さに躊躇し、方向転換を決意する。ギーズ家のア
      ンリは暗殺され、国王とブルボン家の提携が成立
      した。カトリックはこうして野党にまわり、“暴
      君”に対して闘いを挑んだ。

1589 アンリ三世は、後継者を残さないまま暗殺された。

      ブルボン家のアンリが即位する。フランス史上初
      めて非カトリック教徒が王位に就いた。“異端の
         王”を認めないカトリックは闘いを続け、ローマ
      教皇とスペイン王がカトリックを支援した。スペ
      イン軍がフランスに侵入する。

      カトリック対ユグノーの戦い、外国軍の侵略、永
      年の戦火に痛めつけられた農民の一揆が重なり、
      都市も農村も荒廃する。

1593 アンリ四世が政治的判断でカトリックに改宗し、
      古式に則って、正式な王となった。


1598 “ナントの勅令”で和解が成立する。フランスは
      カトリック教国にとどまり、その中でユグノーに
      市民権が与えられた。

ユ グ ノ ー 戦 争

 1517年のルターによるカトリック教会批判は直ちにフランスに波及した。

    1509年北フランスに生まれたカルヴァンは1533年オルレアン大学で学生監補を務めているとき回心するに至った。

 彼は、心の救済を熱心に探し求めはじめたが、良心の声が主張してやまず、時々極度の恐怖に襲われた。


 「なぜなら、わたしが、わたし自身の中に下り、あるいは、わたしの心をなんじ(神)にまで上らせるとき、このような戦慄(せんりつ)の観念がわたしを捕え、どんな清めも、どんな償いも鎮(しず)めることができなかったからである。そして、わたし自身を験(ため)せば験すほど、良心の針はいよいよ鋭くなり、それゆえ、忘却でわたしを偽(いつわ)る以外に慰めとてはなかった」。しかし、それは「キリスト者の告白からわれわれを追い払うためではなく、それをその真の源に返し、あらゆる汚れから清められた純粋性において、それを回復するため」のものであった。
   (冨本健輔『ルターとカルヴァン』清水書院)


 ルターの場合のような徹底さには欠けるものの、明らかに神秘体験
Aではなく、Bの徴候を示していることが読みとれる。

 この時代、ユグノーの数は人口の十分の一程度に達しており、主としてフランスの西南部から南部に拡がり、都市の手工業者ならびに貴族に改宗者が多かったといわれる。

 フランスの宗教改革は政治的要素が濃く、王族と貴族、有力貴族同士の勢力争いが主体であって、とても理解しにくい。渡辺一夫の本は三度読んでもなかなか頭に入りにくい。ここは引き続き、『世界の戦争・革命・反乱』(自由国民社)の抜粋で切り抜けよう。

第二期(ユグノー戦争)

1559 国王アンリ二世が死去。熱烈なカトリックである
      フランソワ二世が即位した。王妃の外戚である貴
      族ギーズ公一家が勢力を伸ばす。兄ギーズ公はカ
      トリック勢力の総大将となり、弟は聖職にあり、
      カトリック教会の首長の地位にあった。

1560 フランソワ二世が死去。王妃メアリ・スチュアー
      トはスコットランドに帰る。王弟で僅か
10歳のシ
      ャルルが即位。母后、メディチ家のカトリーヌが
      摂政の地位についた。彼女は王族の中の最有力者      、ユグノーの総帥、ブルボン家に近づいた。のけ
      者にされたギーズ公がこれを許すはずはなかった
      。

1562 ギーズ公の手兵はヴァッシーの町を襲い、礼拝中
      のユグノーを血祭りにあげた。これ以降
33年間の
      ユグノー戦争が始まる。

      カトリック……王の名を利用してユグノーの弾圧
                    を図る。

      ユグノー ……王権に頼って市民権を得ようとす
                    る。

      カトリーヌ……王権の安定を願って強い味方を求
                    め、両派の間を右往左往する。そ
                    れぞれの圧力に応じて定見なく、
                    ユグノーを弾圧し、あるいはそれ
                    を取り消す。

      第一次戦争……カトリックが仕掛け、
         第二次戦争……ユグノーが仕掛け、
         第三次戦争……カトリックが先に手を出す。

1570 サンジェルマンの和議の後、2年間の平和が保たれ
      たが、

1572 聖バルテルミーの夜の虐殺が起こる。

      王の妹マルグリートがブルボン家の後継者アンリ
      に嫁することとなり、婚礼を祝うユグノーが大挙
      してパリに集まった8月23日、ユグノーに対する虐
      殺が決行された。パリでの死者4千人。この後大量
      虐殺の波が全国に拡がり、死者の数は3万人に及ん
      だ。直ちに第四次戦争が始まり、シーソーゲーム
      が続いた。

      結果としてユグノーは王権への信頼を捨ててフラ
      ンス南部一帯で自分たちの国、平民の国を作りは
      じめる。

 たしか宗教上の信条から始められたユグノー戦争だったはずなのに、31年間戦い続け、暗殺をお互いに繰り返した結果、もともとユグノーだったブルボン家がカトリックに改宗してしまった。双方とも疲れ果てたというのが真相なのだろうが、この時点で、フランスは内的体験にもとづく精神の絶対性を否定してしまった。精神はどうでもよいのであった。現実の平和のほうに優先権があるという認識に到達したのだ、と思われる。こうして、神秘体験Bも市民権を与えられることになった。

画題:浅井忠(1856-1907)
   『廃兵凍死』1894
   紙 水彩
         『現代日本美術全集16 
             浅井忠
/黒田清輝』
      集英社 1974

   まったく関係のない画像で
      申し訳ないが、
      人間同士の殺し合いの惨状は
      誰も描きたがらない。

      ここに参照するのは
   1894725日に武力衝突し、
   81日に宣戦布告された
      日清戦争の有様。

   
金州湾沿いに散乱して凍死している
      清国兵の光景。死臭が鼻をつく。

      なぜか死体には厚みがない。