上の写真に添付されていた説明:

コーア(英語:クワイア)内部
この写真に写っている空間が教会内で一番重要な場所である。手前に見えるのはオットーI世(912-973)の棺。オットーI世は936年に東フランク王 国国王となり、962年に神聖ローマ帝国初代皇帝となる。オットーI世はマクデブルクを最初の妻に「朝の贈り物(結婚式翌朝の新郎から新婦への贈り物)」 とし、8年後の937年に修道院を建てた。当時、エルベ川東側に住んでいたスラブ族をキリスト教化するにあたり、修道院建設とそこを王家の陵墓とすること は重要な意味があった。祭壇の先に見える赤や緑色の大理石の柱は、オットーI世が修道院建設の為にイタリアのラベンナから取り寄せたもので、大火での焼失 を免れ再建時にこの場所に使用された。

 1887年に建設が開始され、1899年まで建設が続行したハルツ狭軌鉄道がクヴェードリンブルクから出発している。ゲージは1,000mmで総延長は140km。ブロッケン現象で有名なブロッケン山頂(標高1,100m)まで登ることができる。一度乗ってみたいものだ。クヴェードリンブルクから出発する汽車の本数は一日二回ということだから、工夫を要す。ヴェルニゲローデから乗車したほうがよいのかもしれない。

クヴェードリンブルク

                         2010/05/23

オットー一世は929年、宮廷のあったクヴェトリンブルクにて、イングランドの王女エドギタ(エドワード長兄王の娘)と結婚した。この時父王はオットーを自らの後継者として諸大公に認めさせた。オットーは新妻にマクデブルクの地を「朝の贈り物」(モルゲン・ガーベ、婚資)として贈った。母親のマティルデはクヴェトリンブルク修道院を建てた。現在のシュロスベルク(城山)なのですが、荒れ果てているようです。

なお、オットー1世は973年、最も気に入っていたといわれるテューリンゲンのメムレーベン宮殿(ライプニッツの西方50km。現在はメムレーベン修道院がある)61年の生涯を閉じた。亡骸はマクデブルクへ運ばれ、聖マウリティウス大聖堂のエドギタの隣に葬られた。(出典

画像Brocken Railway

HSBホームページ

P.S.

中部ハルツ鉄道

クヴェートリンブルクから狭軌の汽車ぽっぽが出ている。資料を集めておきました。

画像

では、皆様ご機嫌よう。

 市庁舎の横に典型的なファッハヴェルクハウス(木組みの家)がある。見て美しいと思うけれども、表だけ。お金で転がされ、中はスカスカ。感心しませんね。

ま、お祭り騒ぎですよね。

オットー一世は9622月ローマ教皇ヨハネス12世からローマ皇帝の冠を授けられ、このときが神聖ローマ帝国の誕生の時とされる。そのときの宝冠がハプスブルグ家の王宮宝物館(ウイーン)に収められている。

 この年は523日がペンテコステ(聖霊降臨祭)に当たっていたからだろうか、市庁舎を舞台にしてザクセン王族の仮装劇が演じられていた。精霊降臨とザクセン王族劇になにか関連性があるのか疑問だが、この町が世界遺産に登録されたのをきっかけに王族劇が開始されたらしい。オットー一世のゆかりの土地ですからね。

仮装行列に出ていた子供達。

画像:マクデブルクの聖マウリトス大聖堂にあるオットーの棺

画像Harz Narrow Gauge Railways

画像:LGB

画像:オットー一世のローマ皇帝冠。頭部のアーチと赤いベルベットは後世のもの。ウイーン王宮宝物館

写真:市庁舎と聖ベネディクト・マルクト教会

画像:この画像、まるでLGBの模型に似ていると思いません?

 ただ、まえにものべましたが、このクヴェートリンブルクの小さな町は、商業主義で満ちあふれ、生活感のまったくない町、お金のぼったくり精神で満ちあふれている町という印象をうけました。ドイツらしさの欠けた町といいましょうか。情けない、という感情がでてきます。

ソ連の支配下から解放された領域では、個人による「金儲け」が突然認められるようになって、金儲けへの急傾斜が見受けられます。チェコのプラハもそうでした。落ち着くまでにまだ時間がかかりそうですね。