Eisenach

        2008/06/13

説明:バルトブルク城の案内説明書から

写真:小学生が遠足にきています。彼らは
歴史的建造物よりも鳩小屋のほうが興味が
あるようです。

 昔は東ドイツのチューリンゲンの森の中で、
私たちは簡単には訪問できなかった。だから、
老齢になってから初めて今、こうして
Fulda
ら通じるアウトバーン
A4に乗ってやってきた。
いかにも最近になって切り開かれたという感
じの、森のなかのアウトバーンである。

写真:ルターの使った机と椅子なのですが、オリジナルは
16世紀の間に熱烈なルター信奉者によって彫刻されたり、
切り取られたりして跡形もなくなった。ここにあるのは、
16世紀中に樫の木で作られた代替のテーブルと19世紀に
南ドイツで作られた椅子。

 地図上でみると、Eisenachはドイツ
のど真ん中。

 ドイツの標準語であるMittel-hoch
Deutsch
はハノーバーの方言であると
されているが、淵源を探ると、ルター
が新約聖書を作った
Eisenachあたりの
言葉だろうとされる。

 こうやってヴァルトブルクへ遂にやっ
てきた、という事実だけで私なぞ幸福感
に包まれてしまう。こここそドイツ人の
ハートのど真ん中という感じがするので
す。

 とりわけEisenachの丘の上にある城
Wartburgヴァルトブルク)は12世紀
の歌合戦を題材としてワーグナーがオ
ペラ「タンホイザー」を作曲して一躍
有名となり、
13世紀にハンガリーから
来た
聖女エリザベートが住み、16世紀
にルターが籠もって新約聖書のドイツ
語訳を作ったお城という意味でも、ま
さに国民的なドイツの歴史を集約する
ドラマティックな舞台となっている。

 ドイツで古い歴史的建造物はなにか?と問
われたら、ローマの時代の
リーメスだろうね、
それにちょっと遅れてトリーアにある
ポルタ
・ニグラ
かな。その次が「鶯啼くよ」(西暦
794年)すなわち平安朝の頃に即位したカール
大帝
の造られたアーヘン大聖堂ですよ、とす
らすら説明が出てくるが、ではそのあとは、
ということになると、はたと考えざるをえな
い。

 カール大帝が亡くなられて東フランク王国
になってから、まるでドイツの土地は霧につ
つまれたように見えなくなってしまうのであ
る。

写真:この門がルターの、雷雨の後、入ってきた入口です。

 では皆様、ご機嫌よう。

 聖アウグスティン修道院が健在でした。も
ちろんその後新教に鞍替えしていましたけれ
ど。でも、聖アウグスティンという名前を変
えずにプロテスタントの教会というのは、な
にか矛盾している感じですね。

写真:
上の写真の右の一角がルターが修道士になる前に寄宿した建物。

Erfurt


 お城の訪問は
2時間ほどで終了しまし
た。ここからエアフルト(
Erfurt)ま
で車で
30分くらいだったかな。

 エアフルトというのは、ルターが
ュトッテルンハイムでの落雷事故
のあ
と修道院入りしたところ。

 バルトルクという名前の東ドイツ車
が昔東欧圏に走っていた。第二次大戦以
前、つまりソ連軍が占領する以前は、

BMW
の工場がEisenachにあって、その工
場を使ってひどく旧式な混合燃料を使っ
1000ccの車を作っていた。なにしろ共
産圏では競争というものがなかったから、
鉄のカーテンが崩れるまでこの旧式な黒
煙自動車が生産され続けた。この工場の
跡が自動車博物館になっているが、まあ
お笑い草かな。わたしは訪問しませんで
した。

写真:下に見えるのがEisenachの町、その向こうに広大なチューリンゲンの森林

 まあ注目に値する政治的、文学的、美術上
の重要な出来事はなにも起こらなかったのだ、
と結論付けてもあながち間違いにはなるまい。

 そこでアーヘンの次にどこへ行くかという
ことになると、私がこれから行くアイゼナッ
ハ(
Eisenach)になるようだ。

 十字軍はアルプスよりも南の問題であるし、ド
イツからは騎士階級の義勇軍が参加したが、国民
的な運動にはならなかったし、ドイツ文学の歴史
をひもといてみた方ならばご存じだと思うが、
15
世紀末のハンス・ザックスの前には文学はほとん
どなにもない状態だったし。