久しぶりに長野市のメルパルクで集ま
った同窓生は年齢が
66歳程度なのだが、
いまだにラッキーに働き場所のある人と、
それとは反対にぶらぶらしている人の二
つのグループにわかれていて、不思議な
ことに、働いておられる方々は皆さん髪
が黒く、働いていない方々は白い髪だっ
た。

 歳をとったと自称しているけれど、実
はこれからさらに
15年ほども生きていか
なければならない。働かなければならな
い。肉体的には弱ってしまっているから、
精神的な活動をしなければならない。

 こういうことをしっかりと考えさせて
くれるのが、同窓会なのであろう。


 これから、時間的には余裕ができるの
で、こういう会はどんどん開くほうがよ
いのかもしれない。

画像:

「妖怪図」
118
px40.5p
絹本、
『高井鴻山妖怪画集』
小布施町、1999

  食堂に飾ってあった花。
「イワチドリ」だって。

桜井甘精堂へ帰って、食堂でまこと
に美味しいお蕎麦の昼食をいただきま
した。東京と関西から来られた食通の
方々が「やはり信州のお蕎麦は美味し
いね」と絶賛してくださったので、こ
の場所を選んだ私も、鼻が高くなる思
いをいたしました。

 桝一市村酒造所でお酒を買い、
ほかにも土産物屋をぶらぶら見て
歩き、桜井甘精堂
で「栗かのこ羊
羹」を買い、栗の木美術館を覗き
ました。

  この美術館の絵はどなたが選ば
れたのか知りませんが、素晴らし
い名作が集められていまして、感
心しました。お勧めいたします。

 鴻山記念館を裏手へ抜けると、の
びやかな栗の小径です。美しくセッ
ティングされて、栗の木の埋木が足
にやさしくあたります。この小径を
抜けたところ、つまり北斎館の対面
にある
小布施堂の栗アイスがとても
美味しいと思いました。

 日本ではこのような先端的な芸術家の
存在はまれです。鴻山しかいません。世
界にムンクがいるのは、ノルウエーのオ
スロだけ、という事態に酷似しています。
鴻山は、日本の大きな芸術資産なのです。

 ご理解いただけたでしょうか?

画像:
『妖怪図』部分
高井鴻山
139.5
px51p
絹本、
『高井鴻山妖怪画集』
小布施町、1999

幕末の絵師といえば、先ごろ京都国
立博物館で展覧会があった河鍋暁斎で
しょうが、彼と同じ頃に活躍したのが、
高井鴻山
(1806-1883)です。高井鴻山は
ノルウエーのムンクよりも約半世紀前
の人ですが、ムンクが『叫び』を描く
1893年よりも二十年も前に、衝撃的な
妖怪画を描きました。妖怪に示される
人間精神が人間の真実なのだ、と主張
したのです。

「妖怪図」
(136px66p)
紙本、
『高井鴻山妖怪画集』
小布施町、1999

 私はいつも桜井甘精堂中町店の前に駐車
します。ここが観光にも、買い物にも、食
事にも、もっとも便利な場所なのです。平
日の朝早くだったので、駐車場もガラ空き
でした。

 http://www.kanseido.co.jp/

 最初に訪れたのは高井鴻山記念館です。

 
http://www.localinfo.nagano-idc.com/
museum/kouzan/

田中家というのは、簡単にいえば、
江戸時代の街道沿いの流通商社なの
だ。交通も通信も押さえているから、
めっぽう強く、土地の殿様よりも事
情通で、殿様よりも金持ちで、殿様
相手に金を貸した。中世欧州アウグ
スブルクの
フッガー家と似ている、
と考えると合点がいくでしょう。

長野駅から田中本家まで車で30分の道
程だ。フルーツ街道を走ると、東京から
来られた方々は「空気がきれいだ」と喜
ばれる。


 http://www.tanakahonke.org/

 同期会の翌日、天が抜けるような快
晴で、暑からず寒からず、とても気持
ちのよい行楽日和となった。


 誰かが何かを言ったのがきっかけで、
自動車を二台用意して長野市近辺を見
て回ることになった。


 長野市近辺は温泉も多いし、山岳地
帯で景色もきれいだし、もちろん善光
寺もある。選り取り見取りなのだが、
本日午前中は須坂市の田中本家と小布
施町を見物することにした。

 私たちはもうすっかり歳をとって
しまった。


 一昔前なら姥捨山に捨てられる歳
なのだが、戦争もなにもない現在は、
時代が老人にやさしくなってしまい、
高額の医療保障を受けながら、のう
のうと暮らせる時代になってしまっ
た。


 それがよいことか悪いことかは、
わからない。ただ、働かないでも時
間は潰せると考えるのは間違ってい
るかもしれない。

 では、皆様ご機嫌よう。

画像:
岩松院天井絵鳳凰図
葛飾北斎筆
545
px 636p
『高井鴻山妖怪画集』
小布施町 1999

その後、少し離れた岩松院で北斎の天井画鳳凰図を見せていただき、

 (美術館内部)

 さらに車で30分ほど走ると栗で有名な小
布施町です。小布施といえば栗羊羹。栗羊
羹といえば、小布施。町のなかも周囲も栗
の木で埋まっており、
10月の栗の収穫期に
なると、信じられないほど大きな栗が手に
入ります。秋に来るのが良いのかも知れま
せん。

 http://www.e-obuse.com/

(写真:http://www.tanakahonke.org/

 今回の展示は、五月人形だったの
ですが、その豪華なこと。また、江
戸時代の旅装束がほぼ新品、しかも
完品で陳列されていて、感心させら
れました。

 お庭には牡丹の花、藤の花、あや
めが満開で絵のような美しさ。田中
本家というのはいつ来ても美しいな
あと感嘆いたします。

http://www.mielparque.jp/ngn/ngn01.html

初夏の田中本家と小布施

                            2008/05/15

 それまでの日本人は、『浄土三部
経』による来迎図を見て、極楽の存
在を
楽天的に想定し、夢のなかに酔
っていたのです。ところが彼はただ
ひとり、敢然として、「それは違う。
正しくはこうだ」と言って、『妖怪
図』を描いた。我々が三途の川を渡
るとき、迎えにくるのは妖怪で、行
先は地獄だ。そうに決まっている、
といって
欲呆けした世間の人たちに
猛省を促したのです。

 記念堂にある鴻山が描いた『妖怪図』を拝観
することにしましょう。構図は『浄土三部経』
による来迎図とそっくりですが、描かれている
のは、妖怪たちです。阿弥陀如来・観音菩薩・
勢至菩薩その他もろもろの菩薩たちではありま
せん。迎えに来るのは妖怪たちなのです。

高井鴻山記念館のパンフレット

 万人の眠りを覚ましたのが、1853年浦賀に来
航した黒船であったとすれば、それより二十年
後、60歳台半ばにして鴻山は日本人の極楽の夢
をぶち壊したのだ、と思います。これが日本精
神の解放をもたらしたのです。

 なるほど、鴻山に絵画の技法を教えたのは、
晩年の北斎でしょう。しかし、精神的な地位か
らすると、鴻山は北斎の(技巧しか存在しない)
世界をはるかに超えていたように思うのです。