なにゆえに修道院に入ったか。
彼は「人間が生まれながらにして死ぬべき存在であること」に途轍もない恐怖感を抱いたのだ。その恐怖感が雷雨のなかで増幅された、と考えられる。
その当時の西洋世界では、キリスト教が広くあまねく信じられていた。キリスト教によれば、世界には終末というものがあり、世界の終末には神がかならず出現して、原罪をもつ人間をその生涯になした行為によって審判し、地獄へ行く人間と天国に行く人間とを峻別するのである。ここには例外というものが存在しない。
世界に終末があるかないかは別にして、仏教でもあの世には、地獄と極楽があり、生前に陰徳を積めば極楽に行けるし、逆に悪業をなしたものは地獄に堕ちる。地獄は、
膽部州(せんぶしゅう)の地下二万由旬(ゆじゅん)で、鉄囲
山(てっちせん)の外辺の闇黒所にあり、閻魔(えんま)が主宰
し、鬼類が罪人を呵責(かしゃく)する。 (広辞苑)
のであるから、人間の考えることは洋の東西を通じて変わらないもののようだ。
彼が生まれてから202年後に日本で生まれた白隠も、地獄に堕ちることを死ぬほど恐れたのが仏道に入ったきっかけなのであるから、ルターがその当時、修道院に入った動機もおかしいとは言いきれない
法学科に進んだばかりのルターは、1505年7月2日、両親の家からエルフルトへの帰途、シュトッテルンハイムの近郊で雷雨に襲われた。
ほんの一瞬のできごとだった。――シュトッテルンハイムという村の付近にさしかかったとき、ものすごい嵐が来襲し、ひらめく稲妻、耳を聾する大音響とともに、ルターのからだはしたたか地面にたたきつけられた。急激なショックに圧倒されて、無我夢中のまま、彼は思わず叫んだ。「聖アンナよ、たすけ給え。私は修道士になります」と。
(成瀬治『ルターと宗教改革』(原典:『卓上語録』千五百三十九年七月の談話
誠文堂新光社)
彼は直ちにエルフルトのアウグスティン派の修道院に入り、修道士となり、修道生活を始めた。
さて、修道院に入ったルターは当然のことながら、自らの死の前に、神の恩寵に接するべく努力する。聖アウグスティヌスがそうしたように、彼も直接に「神と面会」したかった。『告白』のなかで述べられている、あなたのお顔の前で「わたしの闇が白昼になる」(10-5)経験をしたかった。神と自己の魂との一致を求めたのであった。テレサの述べる「念祷の一致」あるいは「恍惚」の境地に到達したかった。
われわれの用語を使えば、神秘体験Aを経験したかった。
彼は秀才であったから、他人がやれることで自分がやれぬことはない、自分も神との魂の融合を実現するぞ、そう思い込んで命がけで修行を開始する。
告解以外にもルターは邪(よこしま)の思いを除き心の平安を得んがために、さまざまな個人的苦行を試みた。見習僧の時代には一日中、長上の命ずるままに動き、勝手な修行など許されなかったが、誓願以後その拘束もなくなると、彼は人並みはずれたはげしさで、断食、徹夜、祈祷、読書といった、いわゆる禁欲的な自己訓練に打ちこんだ。 (『ルターと宗教改革』、同上)
(原典:”Die kleine Antwort auf Herzog Georg nähestes Buch”(1533))
画題:無款
『卜養狂歌画帖』延宝年間(1673~81)頃
紙本著色 画帖
大英図書館、The British library, London
半井(なからい)卜養(1607~78)がそ
の在世中、自ら書し、狩野昌運季信
(すえのぶ)(1637~1702)に絵を描か
せた特別製の絵巻。シーボルトの旧蔵。
をのかうつ 太鼓のはちや あたるらん
つてんとうとも おちてなる神
(小林 忠)
平山郁夫
『秘蔵日本美術大観四
大英図書館/アシュモリアン美術館
/ヴィクトリア・アルバート博物館』
講談社 1994