最後に神の慈悲によって日夜思い煩ひたる後私の注意が、『神の義はそのうちに顕はる、録して義人は信仰によりて活くべしとある如し』といふ語の[内的な]関聨に向けられるに及んで、私は神の義を、義人が神の賜物によって、従って信仰によって活きることを得る其義のこととして解し始め、之が福音によって神の義の顕はるといふ意味であり、即ち義人は信仰によって活くと録されてゐるやうに恵み深き神が信仰によって義たらしめ給ふ場合の受動的な義なのであるといふことを悟り識ることを得たのである。

 ここに至って私は全く新たに生れ、開かれた門を通って天国に入れられたかのやうに感じた。私には忽然として全聖書が新しい相貌を呈した。・・・・(中略)・・・・『神の義』といふ語を憎んだ私の憎悪のかく大きくあっただけに、今私の最も愛好する語として之を讃め頌えへる愛もまた大きい。実際パウロの此箇所は私には天国の門となった。・・・・」

「神の義」の新しい意義の発見についてはルター自身之を個人的に物語ったことも稀ではなく、彼には極めて深い印象を残した経験であったらしい。また詩篇の句にも躓きを感じたことを語った節が『卓上語録』などに見える。兎に角義とは罪人を罰する神の審き、若しくは怒りの意ではなく、却って罪人を義たらしめる神の恵みの意であることを識って、彼の心は天来の光輝き歓喜溢れる感じに充たされ、かくて義は人間の行ひを以て努力追求されるべきではなく、罪人なる我等を救ふ神の恩恵であって信仰によってのみ与へられるとの認識が成立し、「人の義とせらるるは律法の行為によらず、信仰に由るなり」といふパウロのロマ書第三章二八節の教へが深き真理として確かめられることを得たのである。

(7):ルターの晩年に編纂された『ラテン文著作集』第一巻(1545年刊)の序言中の語。

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石原謙著作集第六巻岩波書店1979
Ⅱ マルティン・ルター
聖書と共に生きる
「塔の体験」――福音へのめざめ
から

P327
 ルターの福音の認識が何時頃のことであるにせよ、彼はこれを「塔の体験」と称している。塔とは修道院の一角に備えられた塔の下の個室のことで、ルターの場合、ヴィッテンベルク修道院の生活を意味する。


以上。

 では皆様ご機嫌よう。

P378

 此新しい認識にまで彼を導く案内者となったのは就中アウグスティヌス及びパウロであったが、彼自身晩年の著作(7)中に記してゐる所によると、彼は

「初めロマ書第一章を読んで『神の義は其中に顕はれ』とあるのを見て、『神の義』といふ語を憎んだ。何故なら私は凡ての教会学者の慣はしに従って之を哲学的に、即ち神が之によって義しくあり而して罪人と義しからざる者とを罰する所の所謂形相的(formalem)若しくは能動的(activam)の義として解するやうに教へられてゐたからである。

此義にして罪人を罰する神を私は愛しなかった。寧ろ憎んだ。そは私に当に全然一点の批難もない修道士として生活してはゐたものの、神の前に立っては全く平安なき良心を抱いて自らを罪人として省りみ、私自らの償ひの行ひによって神の宥和を得られるとの信頼にどうしても達し得なかったからである。かくて私は神に向って憤りを発し、秘かに誹謗するのではなく仰々しく呟いて呼はつた、惨めな永遠に見失はれた罪人達は原罪の故にあらゆる種類の禍害を加へられ十戒の律法によって呵責されるといふのでは足りない。否神は更に福音によりて古い痛苦の上に新しい痛苦を積み重ね、また福音によりて其義と其怒りとを我々の前に置いて脅かさんとし給ふのだと。かくて私は狂い悩める良心を以て悶え、其処の箇所で慮る所もなくパウロと共に彷徨し、パウロの意味する所の何であるかを知りたいと熱中して喘ぎ苦しんだ。

石原謙著作集第五巻岩波書店1979
Ⅱ マルティン・ルターと宗教改革の精神
三 若きルターの内的発展
より

P376

 此青年の心襲ひ悩ました「恐怖」とは果たして何か。伝へ
(4)によれば、其年七月初頃エルフルトから程遠からぬ野外を旅してゐた時遽かに激しい雷雨に襲はれて死ぬ許りの恐怖を覚え、少しく前に急死した友人のことを思ひ、自分が次には審判の座に置かれてゐるかの如くに感じて思はず聖アンナの名を呼んで助けを求め誓約したので、其後彼は独り胸中に決意し、七月十七日数名の友人に送られて修道院の門を叩き誓約を果たしたのであるといふ。

(4):此有名な物語は、ルターが後年自ら語った談話によって伝へられてゐる。彼の『卓上語録』千五百三十九年七月の談話Tischreden. Weimar-Ausgabe. , 4704を見よ。

引用文の原典を明確にしておくために石原謙著作集第五巻ならびに第六巻岩波書店1979から該当の引用文ならびに脚注を引き写してあります。必要に応じてご利用ねがいます。

P377

 深酷な苦悶は益々深められる。かの『提題への解説』(resolutions. 一五一八年)の中に彼自ら記してゐる有名な句は此内的苦悶に関はってゐる。曰く、

「今日に至るまで両親に於ける此種の刑罰の恐しさを味った者の如何に多く在るだらう。私も亦一人の人を知ってゐるが、彼は短くはあるが烈しい地獄のやうな悩みを堪え忍んだことを保証してゐた。其は如何な舌も語れず如何な筆も描けず、経験しない何人も信じ得ない程であり、之が半時間だけでも、否十分の一時間続いても、人は全く堪へ入り其凡ての骨々は焼けて灰になって了ふと思はれる許りの悩みであった。其際神は恐しく怒れる神として現はれ、之と共に全世界も同様に思はれた。其際もはや内にも外にも遁避もなく慰めもなく、凡ては告訴である。其時彼は『われ汝の目の前より退けられたり』(詩第三一篇二三節)と呟くが、『主よ汝願くば汝の怒をもて我を懲しめ給ふ勿れ』(詩第六篇二節)とは敢て祈れなかった。此瞬間に霊魂は――かく言ふのも不思議であるが――何時かは救はれ得ると信ずることが出来ず、唯だ刑罰がまだ其衡を完うしてゐないと感じたのみであって、其は永遠の刑罰であり、一時的のものとは思へなかった。霊魂にはただ助けの懇求と恐しいうめきとがあったが、何処に助けを求むべきかを知らない。・・・・」(第一五)

 之は第三者の事として記されてゐるが、彼自身の経験であったのは疑ひなく、其結果神の審判を呪詛する迄になった。実際神が義しき審判を行ふといふことは其要求せられたる義を充たすことの出来ない者に取って重荷である許りでなく悩みであり呪はるべき滅びでなければならない。救主なるキリストも其洗礼の恵みも修道院の約束も凡て意味を失って安全な逃れ場ではなくなり却って地獄のやうに思はれるに至ったと彼は語ってゐる。

画像:絵葉書から
Katharina von Bora (1499-1552)
Nina Koch, Bronze, 1999
Hof der Lutherhalle Wittenberg
©Stiftung Luthergedenkstätten in Sachsen-Anhalt

P376

 修道士として彼の内的の戦ひは一層の烈しさを加へた。彼は如何にかして恵みある神を求めようとして、要求されるあらゆる善行を勤め、肉体の如何なる困苦にも堪へ、誓約の以上を完うし、神学を修め思索を深くし、殆んど欠くる所なき修道の道を尽した。「若し(5)修道士が其道によって天に達し得るとしたら、私もまた其処に達する者でありたいと願った。之は私を識れる凡ての修道院の友が私のために保証してくれるであろう。私は徹宵祈祷読書其他の業によって苦行し、長く続けば続く程に死に至るまでも自らを苦しめて悔いなかった」と後に訴えた程であった。

(5):此語は後年”Die kleine Antwort auf Herzog Georg nähestes Buch”(1533)中に当時を回顧して記せる句の一節である。