しかし現在、この建物をどう眺めても塔(Turm)らしきものはありません。写真で見る手前の(中庭に面した、北側の)塔は、あれは階段塔であって、この建物が後に大学として使われたとき(1564)に作られたものでルターの時代の修道院にはなかった増築部分なのです。

 ではルターが開悟した塔はどこにあるのか。

 じつはこの塔は取り壊されてしまったのです。現在は「存在しない」のです。

 調査の結果、その「開悟塔」を確認できる図が二枚見つかりました。

 とはいえ、宗教改革の哲学的な本質については、「賢明王」が寄与するところは少なく、ただ単にルターが思索を行なうための環境を整えたにとどまる。ルターは教義革命については独力で達成した、と考えるほうがよいのでしょう。

画像:ルターハウス一階平面図、2001

写真:Lutherhaus, Wittenberg

Wittenberg  4

                  2010/05/22

画像:南西隅拡大図

 さらにもう一枚は1845年に、F.A.Stülerが作製した(ルターハウス)北面の設計図です。この設計図はルターの時代のルターハウスの復元図としてFriedrich August Stüler18453月に作製したものです。

 ルターハウスは通りに面した建物が元の修道士の教習所ですから、この建物をくぐり抜けなければなりません。すると、中庭の先にルターハウスの大きな建物が見えます。

 このマルクト広場を過ぎると、Collegien Strasse(大学通り)となるのですが、その東端右手がルターハウスで、その手前がヴィッテンベルク大学です。

 宗教改革の哲学的な本質については、「マルティン・ルター」の項で説明してありますからここでは省くとして、問題は彼が宗教的に開悟した場所、石原謙が述べる「塔の体験」(Turmerlebnis)の場所はどこか、という問題である。

 ルターの福音の認識が何時頃のことであるにせよ、彼はこれを
「塔の体験」と称している。塔とは修道院の一角に備えられた塔の下の個室のことで、ルターの場合、ヴィッテンベルク修道院の生活を意味する。


(石原謙著作集第六巻岩波書店1979
マルティン・ルター 聖書と共に生きる

「塔の体験」――福音へのめざめ から。P327

 このように調べてくると、ルターの宗教改革はルターが一人で独力で達成したものだとはとても思えない。少なくとも「賢明王」に80%程度以上のイニシアティーブがあったとしか考えられない。「聖職売買」、「異端審問」、「贖宥状販売」などは宗教の本質的問題ではありません。それは宗教の本質的問題ではなく、特権階級により歪曲された社会構造の問題なのです。ゲルマン精神に抵触する問題だったのです。この社会問題の改革こそ、賢明王が神聖帝国の摂政としてやり遂げなければならない仕事だったのでしょう。このような当時の社会的側面の改革、は、「賢明王」の富の力によってレールが敷かれ、ルターはそのレールに乗っかっただけだと考えたほうが自然である、と思われます。

 以上の見聞をまとめますと、ルターが開悟した「黒い修道院の塔」は、残念ながら、もうなくなっています。塔の中に階段はなく、単なる勉強部屋であり、広さもあまり大きくなくて、精々四畳半くらいではなかったか、と想像されます。

 これで疑念はすべて晴れました。まずは目出度し、目出度し。


では皆様ご機嫌よう。


注:ルターの引用文の原典については別添を参照すること。

1.    2000年度に行なわれた調査の結果を示すのが上
の図面です。この図面の南西の隅に赤い斜線で
示してある箇所があるでしょう。この箇所は、
修道院の計画にもともと含まれていて、現在は
欠失している「塔」の土台なのです。この土台
はいままで見つからなかったのですが、
2000
度の調査で再発見されたのです。(
P39

2.    (新築された玄関棟の)一階から二階へ上がる
階段の下を見てください。新しく作った玄関の
床に一箇所空いたスペースが在るでしょう。こ
こを覗き込むと、とても大きな蹄鉄型の鋳鉄の
土台が見えます。これが中世の時代に存在した
半分装飾目的の「塔」で、
16世紀の初めに修道
院新築の際に造られたものなのです。(
P42

3.    この「塔」の二階部分が若いルターの勉強部屋
であった確率がもっとも高いのです。この場所
でこの僧は宗教改革の認識の核心「信仰のみに
より、人間は神の御前に立つことができる」に
至ったのです。ドイツ語で、
”Nur durch den
 Glauben ist der Mensch vor Gott gerechtfertigt”

4.    二階の南西の角面にはこの「塔」への入り口が
あります。これは
1983年に内壁の中から発掘さ
れたものです。

5.    この「塔」は18世紀初期の町の概観図で見つけ
ることができますが、その後
50年あまり後の建
物の配置図には欠失しています。だから、
18
紀中頃に取り壊されたのに違いありません。

写真:ルターハウス二階南西角の「塔」内勉強部屋への入り口。
      現在は煉瓦で塞がれている。

 昔の人たちは(電気もテレビもありませんでしたから)、夜は暗いなかでじっと座って心の中を覗き込む「内観」に励んでいたのです。日本の坐禅と似ていますね。

画像:”Das LutherhausEin bauhistorischer Rundgang”,
         Insa Christiane Hennen,
         Lutherstadt Wittenberg, 2002
P25/26

 画面右端に渡り廊下が見えますが、その後ろに四階建ての小さな建物が見えます。これが
「塔」なのです。赤い矢印を付けてあります。

 画像は”Das Lutherhaus-Ein bauhistorischer Rundgang”, Insa Christiane Hennen, Lutherstadt Wittenberg, 2002から拝借しまし
た。(『ルターハウス―建築歴史のツアー』)

 私はこの本をルターハウスで購入したのですが、この本の著者であるInsa Christiane Hennen女史が「塔」に付き解説しているところをかいつまんで列記すると、要約は次。

 1611年のヴィッテンベルクの光景で
す。エルベ河越しに南方から眺めた木
版画の一部です。中央に見えるのが、
聖アウグスティン修道院の建物ですが、
その南西の角に四階建の塔が見えます。
赤い矢印をつけておきました。

画像:
”Das LutherhausEin bauhistorischer Rundgang”,
Insa Christiane Hennen,
Lutherstadt Wittenberg, 2002
P11

 この大きなルターハウスは1507年に完成した聖アウグスティン派修道院なのですが、建築費用は全額フリードリッヒⅢ世「賢明王」が拠出したのです。聖アウグスティン派修道院ですから、僧服の色をもじって「黒い修道院」(Black Cloister)と呼ぶことは前にお話しましたね。建物の色が黒いわけではありません。

写真:大学

写真:Rathaus, Wittenberg 

上の観光地図は現在のヴィッテンベルクのアルトシュタット(旧市街)の部分を示しているのですが、旧市街の西端(画面の左端)のSchloβstr.に面しているのが宮中教会で、このSchloβstr.を東方向に歩いて行くと、すぐ左手がマルクト広場となり、荘厳な市役所(Rathaus)があります。通常はこの市役所の真正面にルターの銅像があるのですが、私の訪ねた日、この像は補修のため土台から取り外されていました。

画像:
ヴィッテンベルク観光案内書パンフレットから