この場合、実行当事者であるルターには大きな危険が伴っ
たが、フリードリッヒⅢ世は、


       1.    神聖ローマ帝国の摂政という重職にあって、帝国内
      の情報に通じていたこと


       2.    ローマ教皇へ多額の献金を行ない、ローマ教皇と気
      脈を通じていたこと


       3.    神聖ローマ帝国皇帝カール4世への選挙協力をして
      皇帝にたいする発言権を確保していたこと

という三点だけから考えてみても、(ルターがフスの二の舞
に陥らないよう)、フリードリッヒ「賢明王」がルターの保
護のために、政治的な圧力をかけ、十分な根回しを行なって
いたことはまず間違いはありません。

 ヴォルムス帝国議会からの帰り道にルターを誘拐したのも、
フリードリッヒⅢ世が、それでも尚且つ、万が一のことを考
えて採用した「賢明」な防護策の最後の一策であったと思わ
れます。ひょっとすると、「ルター処刑」という内部情報が
フリードリッヒⅢ世の耳に達していたからかもしれません。
彼が拉致されていった
Wartburg城は、そもそもがフリードリ
ッヒⅢ世選帝侯の領地だったのです。

ルターは事実上フリードリッヒⅢ世の完璧な保護下にあっ
たばかりか、帝国内の誰にもひとことの文句もつけさせない
用意周到な舞台がフリードリッヒⅢ世によって事前に設えら
れていた、と考えたほうがよいと思われます。

 まあ、だれでも考えつく舞台裏なのでしょうが。

 思い出してください。417日、カール五世が
皇帝として出席した帝国御前会議で、トリーアの
大司教
(Johann von der Ecken)がルターに、彼の出
版した著作物をすべて取り消すように要求したと
きに、ルターは即答しませんでしたね。即答はせ
ずに「一日時間をください」と言ったのです。何
故だとおもいますか? ルターは後援者である

リードリッヒⅢ世と相談する必要を感じたのです。
用意周到な人間なら誰でもそうします。経済的な
後援者で、社会的地位を支えてくれている上司の
意向を伺わないと、このような場合、重大な決定
はできないものなのです。

 よくあるでしょう、重大決定を行なうときは、
日本の国会議員は必ず国元に帰って支援者と相談
する。あれですよ。あれ。

 ルターはしたがって、その晩フリードリッヒⅢ
世の宿舎に参上して、どう答えるべきかを相談したのです。

翌日、「私は此処に立つ」と断言できたのは、
すべて綿密に相談済み、打ち合わせ済みの自信の
言葉だったのだ、と私は思いますよ。

 用意周到な秀才達、ルターとフリードリッヒⅢ
世のコンビは、こうして歴史上これ以上の類例を
見ないほどの成功をおさめたようです。

ただ、フリードリッヒⅢ世は「堅実だが、消極的一方で無能」ではなかったか、という疑問がのこりますが、この殿様の場合はそうでもありません。

 1500年に神聖ローマ帝国の改革の必要性を論じ、帝国内に摂政協議会を創設してみずから会長におさまっている。実質的に帝国の摂政になっていたのです。帝国内の内政を一手に握る重職でした。また、神聖ローマ帝国というのは、元来がキリスト教の伝道・布教と教会の守護をモットーとしているのですから、キリスト教を護ることが本義となります。その当時「聖職売買」、「異端審問」、「贖宥状販売」など既にたがの緩んでいたカトリックの内部改革をフリードリッヒⅢ世自身が狙っていたと思われます。ただ「賢い」殿様だから、改革は自分ではやらずに、子飼いの秀才僧侶に実行させた。これが賢い「フリードリッヒⅢ世」流なのでしょう。

つまり、彼は一本釣りで獲得した最優秀僧侶を帝国の内部革命に利用した。

画像:同上
葡萄園を取り囲む木柵は綺麗に維持されている。全員が働いている。熊手で土地をレーキする者、干からびた土地に水を注ぐ者、その水を井戸から汲み上げる者、摘み取った葡萄を背負子で圧搾機まで運ぶ者、全員が働かなければ葡萄園は成り立たない。

 フリードリッヒⅢ世「賢明王」は選帝侯でした。選帝侯というのは神聖ローマ帝国皇帝を選挙する権利をあたえられた人たちの名称で、フリードリッヒⅢ世のころの選帝侯は、次の七名だったのです。この人たちがカール大帝のフランク王国崩壊後の第一次ドイツ帝国を構成していたのです。

              マインツ大司教
              トリーア大司教
              ケルン大司教
              ボヘミア王
              ライン・プファルツ伯
              ザクセン・ヴィッテンブルク公
              ブランデンブルク辺境伯

 これらの選帝侯が保持する特権は1356年発布されたカール4金印勅書に規定されていましたが、簡単に述べれば、「領内における完全な裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権、ユダヤ人保護権(ユダヤ人に関する裁判権と徴税権)を有する。」ということでした。

これは筆者の推定なのですが、フリード
リッヒ「賢明王」はエルフルトのアウグス
ティン修道院とエルフルト大学を調べ上げ、
成績最優秀だったルターを狙い撃ちして一
本釣りしたものと思われます。

果たして150825歳でルターはヴィッテ
ンベルクへ連れて来られ、大学で道徳哲学
を講義させられました。筆者の想像ですが、
ルターは殿様の命令でちっぽけな田舎町に
赴任させられたが、嫌々だったようです。
だから、このあと
2,3年の動向がはっきりし
ません。
Erfurtへ逃げて帰ったのだと思いま
す。

最終的にヴィッテンベルクに転居したの
151128歳のときでした。

しかし、考えてもご覧なさい。人口わず
2000人のちっぽけな町とはいえ、領主の
お膝元であり、宮殿、大学、「黒い修道院」
のすべてが新築の出来立てで美しく、そこ
で給料付きの住み込みの教授職として待遇
されたのですから、これ以上の厚遇は当時
のドイツでは考えられない扱いだったので
しょう。現代の我々が考えても彼の立場は
「完璧」だったですね。庶民階級出身のス
ーパー・エリート。何不自由のない暮らし。
勉強と思索に打ち込める環境。これこそが
金持ち領主からルターに与えられた待遇だ
ったのです。

ここがフリードリッヒⅢ世の「賢明」な
るところでした。如何に優秀な人材でも
「日銭に事欠くような貧窮状態」では碌な
思想は生まれてきません。人材を育てるた
めに彼は金を惜しみなくつぎ込んだのです。
また、ヴィッテンベルク大学を馬鹿にして
はいけません。数年のうちにこの大学は
(領主の金の力で)学生数が
400名を越え
て、エルフルト大学を凌駕するドイツで最
大の大学になったのです。この大学の建物
は今でも残っています。

写真:
Albrecht Steinwachs “The Vineyard of the Lord”
Epitaph for Paul Eber by Lucas Cranach “the Younger”, 1569
©2001 J.M.Pietsch, edition AKANTHUS, Spröda
ヴィッテンベルク教区教会の内陣に在るPaul Eberのための墓碑。
ルーカス・クラナッハ(息子)が描く『天主のぶどう畑』

Paul Eber
という人は神学者で、旧約聖書の翻訳につきルターを助けた。”Eber”が猪という意味だから、この絵に描かれる葡萄園は猪に題材を採っている。天主の葡萄園が猪から護られるように木柵で取り囲まれた葡萄園となっている。

画像:
Joust (馬上槍試合)
Lucas Cranach the Elder, woodcut, 1506
Private Loan
“Martin Luther in WittenbergA Biographical Tour,
Martin Treu, Wittenberg 2008

注:ヴィッテンベルクのマルクト広場での馬上槍
試合を描いたものと思われる。

Wittenberg  3

彼はすべての背後関係を知っていたと思われます。

神聖ローマ皇帝カール五世の前任者、神聖ローマ皇帝マクシミリアンⅠ世が(親族である)チロルのジギスムンド公を退位させてチロルを継承した際、ジギスムンド大公の抱えていた多額の借財を解消するために、インスブルックに近いシュバッツ銀鉱山を抵当にいれてフッガー家のヤーコブ二世から金を借りた。

シュバッツ(Schwatz)15世紀半ばから銀の産地で、当時人口約2万人を有し、ザクセンのそれを上回る欧州最大の銀鉱だったのですが、それもこれも、ジギスムンド公が1487年ベネツィアとの戦争で支払った賠償金がそもそもの発端でした。つまり、ハプスブルグ家は他国と戦争をしたあげくに欧州最大の銀鉱山をフッガ―家に譲り渡したのです。(フッガ―家の富の蓄積はこのときから始まった、と言われております。)

こうして「戦争をくりかえしては借財を増やす」ハプスブルク家と、「戦争を忌避して地道に無借金経営を行なう」ザクセン・ヴェッティン家との対照が明らかになりました。ラテン系のルーズなものの考え方とゲルマンのストイックなものの考え方との対蹠といえるでしょうか。

画像:同上
旧教側では葡萄園を取り囲む木柵は引き抜かれ、大司教がそれを焚き火にする。昼間から酒を飲み、あげくに取っ組み合いの喧嘩をするもの、葡萄園の葡萄をひっこぬく者、井戸に石を投げ込むもの、こうして天主の葡萄園は荒らされる。

画像:
Martin Luther, Lucas Cranach the Elder, oil on wood
c. 1520
the State of Saxony-Anhalt/East German Saving Bank Foundation/the Wittenberg Saving Bank
“Martin Luther in WittenbergA Biographical Tour, Martin Treu, Wittenberg 2008
ルターが被っている黒い帽子が博士帽。

なお、
 その他の関連情報は

また
  画像“The Vineyard of the Lord”の原典はの三つ。

では皆様ご機嫌よう。

もう一つフリードリッヒⅢ世の「賢明」なところがあります。

その当時の庶民のだれもが理解していたことでしょうが、彼は「金持ち喧嘩せず」の方針を貫いたのです。戦争をしないように、戦争に巻き込まれないように、戦争の可能性を徹底的に潰したのです。

神聖ローマ帝国での最終的な教権は教皇が持っていて、しかも帝国皇帝の王冠を授けるのは教皇でした。フリードリッヒⅢ世「賢明王」はローマ教会に多額の寄付を行ない、教皇レオ10世はこれを喜び、彼にGolden Rose of virtue(美徳金バラ勲章)(151893)を授け、彼をマクシミリアンⅠ世の後釜として次期神聖ローマ帝国皇帝候補として推薦したのです。ところがなんと彼はその推薦を辞退して、1519年の皇帝選挙ではハプスブルク家のカール五世を推挙して皇帝にさせてしまった。

画像:
Luther at the Imperial Diet in Worms, colored woodcut, 1557
“Martin Luther in WittenbergA Biographical Tour,
Martin Treu, Wittenberg 2008

1521418日、著作の撤回を求められたルターは答えた。
「私の良心は聖書につながれています。従って、取消しは出
来ないし、するつもりもありません。なぜなら、良心に反し
て行動することは正しくもないし、安全でもないからです。
アーメン。」

はたせるかな、1519年マクシミリアンⅠ世の後任として神聖ローマ帝国皇帝に選出されたカール5世は、その後際限もない戦争を繰り返し、1556年、スペイン王家は破産するにいたりました。

 大衆は「借財で戦争をして、銀山を抵当に入れる」ハプスブルク家と「戦争は回避して銀山からの歳入を人材育成にまわす」ザクセン・ヴェッティン家との思想の差を読み取っていたのです。

 どうです。「賢明王」の施策は、なんとなく戦後の日本の舵の切り方と似ていると思いませんか? 借金をしないという点では現在の日本人よりもなお優れていたかも知れません。

画像:同上

天主の葡萄園での一日の終わりに、旧教側の葡萄園での仕事を終えた法王が天主から一デナリオンの対価を受け取っている。その手には宝石で飾られた腕輪をはめている。法王はどうやら「永いこと働いたのだから、一デナリオンでは不足だ」と言っているようだ。天主は「約束通り公平に」と言い返しているのだが。

Wittenbergを首都にするという方針は先王
ルンスト
1485年に決めたことなのですが、
エルンストはその翌年落馬事故で亡くなって
しまい、長男のフリードリッヒⅢ世が
1486
23歳でザクセン・ヴィッテンブルク公として
即位したのです。

Wittenberg16世紀初頭、人口が2000人足ら
ずの小さい町でしたので、銀資金が潤沢にな
ったのを見計らい、宮殿、宮殿教会、大学、
修道院(アウグスティン派)を立て続けに建
設しました。修道院は「黒い修道院」でした。
僧服の色の違いから、アウグスティン修道院
は「黒い修道院」とよばれ、もともと在った
ドミニコ修道院は「灰色の修道院」と呼ばれ
たのです。これらの宮殿と教育機関は
1507
までにすべて完成しました。

そして、それらの完成をまたずしてこの賢
明王は人材の獲得にのりだしたのです。

その当時のルターが住んでいたエルフルト
は人口が
25,000人で、このあたりでは最大の
都市であったし、とくにエルフルト大学はそ
の当時ドイツ最大の大学規模を誇っていたの
です。

ところでこの「賢明王」は、この莫大な財貨を、(勿論一部は聖遺物の蒐集とか馬上槍試合にも使ったのですが)大部分を人材の育成費用にあてたようです。

「金持ち喧嘩せず」という諺が日本にはありますが、この諺通り、彼は戦争をしなかったのです。戦争をせずにひたすら人材の育成に金を使いました。ここが彼の「賢明」というニックネームを頂戴した所以でありまして、実際に彼は西洋の哲学基盤を一変させる人物をつくりあげることに成功しました。それがルターなのです。

では、ルターを作り出すために、選帝侯はなにをしたのか?

ここで問題にしている「ザ
クセンの銀」に関していうな
らば、ザクセン・ヴィッテン
ブルク公つまりフリードリッ
ヒⅢ世「賢明王」は、ザクセ
ン領内に於いて「銀を採掘し
精錬する権利」のすべて、な
らびに「銀貨の鋳造」を行な
う独占権をもっていたのです。
先に述べたように採掘精錬権
だけで歳入の三分の一に相当
していたのですから、貨幣の
独占鋳造権を含めると、歳入
の半分ほどが「銀」から生み
出された勘定になるでしょう。
使っても使っても使い切れな
い膨大な財貨をフリードリッ
ヒⅢ世「賢明王」が持ってい
たことは明らかです。

画像:
Albrecht Steinwachs “The Vineyard of the Lord”
Epitaph for Paul Eber by Lucas Cranach “the Younger”, 1569
©2001 J.M.Pietsch, edition AKANTHUS, Spröda
熊手を手に持ち、雑草、下生え、石ころを取り除くルター

画像フリードリッヒⅢ世「賢明王」