また、ルターのこの経験は、
玉城康四郎
林 武
アヴィラのテレサ
白隠
のそれとぴったり符合していることに読者は気づかれよう。
それは救われようのない体験であり、そのときには思わず「わが神!わが神! なんぞわれを捨てたまいしや」というセリフが出てしまうことも、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』で見てきたところである。
この経験をして、われわれはひょっとすると「原罪経験」と呼びうるのではないかと筆者は考えている。
ところが、かれの思惑とはことなり、ルターは神の恩寵たる神秘体験Aには結局到達せず、かれが到達したものはテレサが到達した「悩み」体験だけであった。
成瀬治は次のように記述する。
ここに現われるものは、ひたすら「怖るべき秘密」としての神であり、この神の前に容赦なくあばき出される人間性の深渕である。およそいっさいの宗教というものの根源に立つ、このような永遠の秘儀としての神、この神が自ら人に語りかけるとき、人はただ打ちひしがれ、畏怖におののくほかはない。それは「あたかも雷が樹木や人間に落ちかかるさまを見るかのようだ」とルターは描写し、「神は獅子のごとく、私のすべての骨をうち砕く」と旧約詩人の言葉をもって語る。「しかり、彼は悪魔にもまして恐ろしく、身の毛をよだたしめる。なぜといって、彼はわれわれを扱うに暴力をもってし、われわれを苦しめさいなんでなんら容赦するところがないからだ」。 (『ルターと宗教改革』、同上)
「私はある人を知っていた。かれは私にいった。この苦しみを自分はいくたびも耐えしのんだ。もちろん、いつもほんの短いあいだだけれども、あまりに大きい、地獄のような苦しみだから、なんとも口でいいようがなく、なんとも筆で書きようがない。それどころか、 自ら体験しなかった人はだれひとり、これを信ずることができない。この苦しみは、もしそれがいっそう高じていたとしたら、あるいはほんの半時間、いやほんの10分の1時間でも続いていたら、人間は完全に死んでしまい、彼の骨はことごとく灰になってしまうほどのものなのだ。こうした瞬間に、神はそのすさまじい怒りにおいて現われ、彼の前にすべての被造がいちどきに現れる。そこには逃げ場もなく、どこからも慰めてくれるものはない。……ただいっさいのものの告訴と断罪があるだけである。 (同上)
(原典:『提題への解説』(resolutions. 一五一八年))
成瀬はこのくだりを、「これこそほかならぬルター自身の体験の告白なのではあるまいか」としているが、筆者も同感だ。
ここには、
その経験の短時間であること。
この経験は、経験した人でなければ理解できぬこと。
という神秘経験の特徴がはっきり述べられており、また、その内容は、
苦しみの極致であること、
「死」のみが見えること、
助かるためのいかなる糧をも見出せぬ。
と記してあるから、筆者が神秘体験Bとして定義しているところと、同一である。
こうした精神的激動は、しかし修道士時代をもって終りを告げたのではない。それはじつに晩年に至るまで、再三再四彼を襲ったのであった。あるときは神の「試錬」として、またあるときは悪魔の「誘惑」として、「悪魔の最大の誘惑は、悪魔が『神は罪人の敵だ。お前は罪人だ。だから神はお前の敵だ』ということにある」とルターは語った。 (同上)
テレサは「彼はいわば、天と地との間に十字架につけられていて、その苦しみのなかで、どちらからも助けを受けません」と述べているが、ルターは天は見ず、地だけを見た男なのだ。
画題:Enguerrand Quarton
"Couronnement
de la Vierge", 1453-54
Musee Municipal de l'Hospice,
Villeneuve-lez-Avignon
Jean & Yann le Pichon
"Le mystere du Couronnement de la
Vierge"
Robert Laffont/le Centurion 1982
地獄の有様。
『聖母の戴冠』の部分拡大図