ALSと親父

管理人の身の回りの出来事、ちょっと書き留めておきたい事などです。
ALSのドラマ 2014.01.23
1月より主人公がALSのドラマが放映されている。ドラマを見ると当時のことを思い出す。
現在自分は患者会の委員やALSで在宅している人のスイッチボランティアをさせてもらっている。
実際にはドラマのようにきれいなことばかりではないが、ドラマを通してALSという病気を知ってもらい、呼吸器をつけても家族も本人もより快適な生活ができる環境ができたり、病気の解明、治療法が早く確立されることを願っています。
ALS患者・家族交流会 in もんぜんぷら座 2009.05.16
5月16日に長野県のALS患者・家族の交流会が、長野市のもんぜんぷら座で開かれ、参加させていただきました。当日は、発起人の和田さんをはじめ、患者さん、家族、遺族、医療関係者のみなさんを含め、70人程度が参加されていました。日本ALS協会の会長の松本さんもお見えになり、ユーモアあふれる挨拶をしていました。
グループに分かれての交流会では、イロウの時期、患者さんへの病気の伝え方など、抱えている課題について話をしました。
信大病院の先生による、『ALSの最近の知見』のお話もありました。
信大病院では、6月から難病訪問診療センターが開設されるそうです。
長野県支部は現在活動を休止中ですので、これを機会にALS協会長野県支部の活動が再開されることを願っています。
敬老会 2008.09.15
私の住んでいる地区で敬老会がありました。長男が作文を読む事になり、おじいちゃんとの思い出の作文を発表しました。

   『おじいちゃんとの思い出』
こんにちは、ぼくはおじいちゃんとの思い出がいっぱいあります。夏には、川でイワナをつってきてくれてみんなでおいしく食べてことや秋には山菜をとってきて、きのこじるを食べたり冬には、もちつきをしてつきたてのあったかいおもちを食べたりしました。春には、桜の下でお花見をしながら焼肉をしていつもにぎやかく楽しかったです。おじいちゃんは、いつもおばあちゃんと二人で仕事をしていて休日にはぼくたちといっしょに遊んでくれていっぱい思い出を作ってくれました。おじいちゃんは、ぼくが4年の夏から体調が悪くなりそのころぼくは少年野球をを始めたばかりだったのでおじいちゃんとキャッチボールをしたかったです。でも、ぼくとお父さんがやっているキャッチボールを笑ってみていてくれて良かったです。ぼくは今少年野球を続けていて今年が少年野球最後なので、少しでもいい結果が残せるようにがんばっています。一本でも多くのヒットが打てたり、エラーを一つでも少なくしたりしたいです。おじいちゃんも見守っていてくれると思います。これからもおじいちゃんの分までおばあちゃんに優しくしてあげたいです。おじいちゃんはとても優しい人だったので、ぼくも困っている人を助けてあげたり人に優しくできるようになりたいです。地区のおじいさんおばあさん病気にかからず毎日元気にすごして下さい。あとこれからもずっと長生きして下さい。
岡谷のとうろう流しと花火祭り 2008.08.16
岡谷の送り盆の風物詩として親しまれている『一千灯とうろう流しと花火まつり』が釜口水門周辺の諏訪湖で行われました。湖面に揺れる幻想的なとうろうの明かりと花火の共演は見事でした。
このとうろう流しは、1951年に始まり、今回で58回目になるそうです。
諏訪湖の御神渡り 2008.02.05
2季ぶりに諏訪湖に御神渡り(おみわたり)ができました。御神渡りとは、諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとに通った道筋と言われています。湖面にはった氷が収縮、膨張によりぶつかりあい、盛り上がって道筋となります。
2月2日に拝観式が行われ、湖面に延びた3本の筋を調べ、正式に御神渡りと認定されました。過去の記録と照合して農作物の豊凶などを占った結果、「天候はやや不順だが、作柄は良好で、世相は不安定だが明るい兆しあり」とでたそうです。
闘病生活を終えて 2007.12.11
2006年11月にALSの診断をされて以来、皆様方の暖かいご支援をいただきながら家族一丸となってがんばってきましたが、親父はついに力尽きてしまいました。1年少しの短い闘病生活でした。我々家族もやっとペースをつかめてきた頃でしたので、非常に残念です。お世話になった皆さん本当にありがとうございました。
親父自身が一番がんばったと思います。呼吸器をつけたころ、同じALS患者さんの生活の様子を紹介したホームページを見せたりしました。親父が『希望をもってがんばる』といってくれたとき、私は非常に嬉しかったのを覚えています。その後、何度も肺炎になったりして、親父も元気のない日があったり、元気な日があったり・・・。(病気でなくてもそうですが・・・)
我々にとっては貴重な1年間でした。私自身、自分の家庭がありますので、普段親父と接する時間は少なかったのですが、親父と一緒にパソコンやメールをしたり、リハビリをしたり、この一年間はずいぶんコミュニケーションをとることができました。親父が自分のホームページを友人に見せながら照れ笑いしていることもあったようです。車椅子対応のレンタルカーで諏訪湖に散歩に行った事もいい思い出になりました。
家族で協力し合い、絆が深まった気もします。
ALSは現在の医学では完治することはできませんが、原因の解明などかなり進んでいます。ALSが難病でなくなる日が1日も早く来ることを心から願っています。
ホームページを開設して5ヶ月 2007.10.06
ホームページを開設して5ヶ月ほどたちます。最近、励ましのメールなどをいただくようになりました。ありがとうございます。また、同じ病気を告知されたという方からも時々メールをいただきます。発病の確立からすると、毎日どこかで同じ病気を告知されている方が何人かいるのだと思います。HPを見て少しでも希望や元気を出してもらえたらいいなーと思っています。
今後もインターネット、メールを通じて情報交換させていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。
毎年恒例のキャンプ 2007.07.29〜31
我が家では、毎年夏にキャンプに出かけます。今年も昨年と同じく山梨県のウエストリバーオートキャンプ場に二泊三日で出かけました。入院中の親父のところに顔を出してから出発しました。あいにく天気が悪く残念でした。特に二日目の夜は雷と大雨で大変でした。テントの設営と撤収の時は雨がやんでいたので助かりました。
日中は晴れ間ものぞき、子供達は元気で遊んでいました。
近所のおばちゃん
私達の住んでいる地区は、となり組というのがある。10件くらいの単位で班が構成されている。実家のとなり組にいるおばちゃんで、小さい頃からお世話になっている人がいる。この間、母が外出した際、夕飯をさしいれてくれた。親父が在宅療養中や入院中にもいろいろと支援してくれる。いつもありがとうございます。
(記:2007.04)
親父の友達
親父の若い頃からの友人に『おじい』という人がいます。昔同じ会社に勤めていた友人です。若い頃からおじいさんのようだったので『おじい』と言われているそうです。自分も子供のころかわいがってもらったとのことです。(記憶はないけれど・・・)普段は1年に1回の集まりで会うくらいっだったようだが、親父が病気になって以来、ときどき顔をだしてくれます。親父は呼吸器をつけているので、声はでないが、口パクでコミュニケーションは取れます。外に自由に出れない親父にとっては、『おじい』がきてくれるのは非常にうれしいと思う。『おじい』いつもありがとうございます。
(記:2007.04)
訪問看護師さんの一言
初めての2週間の在宅生活が終わり、自宅から訪問看護の方に付き添ってもらい入院したきのことだった。病室のベッドまで付き添ってくれ、病室から帰ろうとした訪問看護師さんが、『卓郎さん。がんばっていきましょうね。』といってくれた。この言葉に非常に勇気付けられ、元気が出ました。
私の娘の中学校の壁に『たった一言が人の心を傷つける、たった一言が人の心を暖める』という言葉がはってあります。まさに心暖められる一言でした。
ケアマネージャーさん、訪問看護師さん、ヘルパーさん、訪問入浴サービスの方々、病院関係者の皆さんにお世話になり支えられ生活しています。
親父を支援してくださる方々、そして主たる介護者の母、マッサージをしてくれる嫁に感謝です。
(記:2007.04)
千羽鶴
嫁と子供たち3人が、親父に千羽鶴を作ってくれた。何日もかけて一生懸命作ってくれた。親父が入院中だったため、自分は会社の帰りに病院に寄ってきていた。その間に自分に内緒で作ってくれていた。自分はそんなことは知らなかったのでびっくりした。そういえば、自分が帰るとそわそわして何か慌てて片付けているときがあった。
親父にとっては最高の贈り物だと思う。
嫁と子供たちにありがとうである。
(記:2007.04)
呼吸器装着
すべり症の手術を受けるため、遠く愛知県の病院まで行っていましたが、ALSの告知を受けたため自分の家の近くの病院に転院しました。呼吸器装着の選択までは時間があると思っていたので、親父とはおいおい話しをしようと考えていた。呼吸器をつけての生活がどんなものなのか、介護の負担はどんなものか。母にできるだろうか。インターネットのHPで公開してくださっている方々の情報を集め、話をする準備はしていた。しかし、あまりにもその時が早く訪れた。11月24日に転院し、次の日の25日には挿管、呼吸器装着となってしまった。あまりにも急なことだったので、親父は呼吸器をつけての生活のことなど知る間もなく、なにがなんだかわからないうちに、息苦しさを逃れるため呼吸器を装着したのだと思う。呼吸器をつけるかどうかの選択については、人により価値観が違うと思うし、どちらが正解ということはないと思う。健常者の私が今、その立場になったと仮定して出す答えと、もし実際にその立場になった時に出す答えは違うかもしれない。
自分としては、呼吸器を選択してくれて良かったと思っている。
親父は呼吸器をつけて生きている。家族みんなで元気で明るく生活していきたいと思う。

(記:2007.04)
元気が出た言葉
ALS告知を受け、インターネットで情報収集している頃に出会い、元気が出た言葉です。

 〜ALSになったことは不幸だけれど、ALSとして歩む人生は幸せなものでありたい〜
2〜3万人に一人というALSになってしまったことは、非常に不幸なことです。でも、ALSになってからの人生をどう過ごすかはとても大切なことだと思う。健常者の自分は、『なってしまったものは仕方がない。前向きに考えよう。』と簡単に言ってしまうが、親父は、なってしまったものは仕方がないなどと簡単にはわりきれないと思う。しかし、いつまでもくよくよしていても仕方がないことも事実である。家族で食事をしたり、外出したり、明るく・楽しく・元気に過ごせるようにしていきたいと考えている。ホームページを見させていただくと、ALSでも生き生きとした人生を送っている人はたくさんいます。
親父はそんなにがんばらなくてもいいが、明るく元気でいてほしいと思う。それが、家族みんなの元気に繋がると思う。

〜困難にあったとき、できない理由を考える人と、どうしたらできるかを考える人がいる〜
落ち込んでいる自分にとって元気付けられる言葉だった。この頃はマイナス方向に考えがちだった。しかし、この言葉をみて、確かにそうだ『どうしたらできるのかを考えよう』と思った。人は、がんばればたいていのことはできるのではないかなー。前の病院で告知を受けたとき、『呼吸器をつけても車椅子で外出したりしてる人もいますよねー』と私が聞いたら、先生からは『親父さんの場合は無理かもしれませんねー』と言われた。しかし、現在リハビリの先生のご指導、ご支援により、今ではちょっとした外出もしている。だんだん外出時間を長くしていき、ちょっと遠くまで外出したいと考えてる。
(記:2007.04)
ALSの告知
2006年11月8日に告知がなされた。親父、母、自分の3人で受けた。ALSという進行性の難病で、筋肉が萎縮していき、寝たきりになる。治療法が見つかっていない。今後は筋肉維持のリハビリと、進行を少しでも遅らせるための飲み薬による治療。という内容だった。自分はALSの疑いがあることは事前に聞いていたので、病気の内容はある程度理解していた。医者の告知に対し、親父は『この病気だと、あとどれくらい・・・・』と質問していた。親父は、自分よりもかなり冷静だった。親父は初めて聞いた病名だったので、あまり実感はなかったと思う。しかし、重大な病気であることは認識したと思う。このころは、息苦しさはありましたが、自分で食事もでき、車椅子を自分で操作し、行動できていた。親父には、人工呼吸器のことや、イロウのことなど、時期を追ってだんだん話をしていこうと思っていた。まさか2週間後に人工呼吸器をつけることになるとは想像も出来なかった。
(記:2007.04)

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