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ちほく高原鉄道初乗車(前編) 第4回
(05年10月の旅)
無人地帯にある川上駅
運転手と話をしているさなかも周辺の景観を眺めていたのだが、どこを見渡しても原野や林間、山といった無人地帯ばかり。さすがはちほく高原鉄道のなかでも、極めて人口の稀薄な場所である。やがて前方に古い小屋のような建物が見えてきた。「もしや・・・」と思ったその建物こそ、秘境駅として名高い川上駅であった。周辺は何もない、というより林の真っ只中である。私は思わず「これかぁ」と声を上げてしまった。
タクシーが駅前まで乗り入れられるように、この駅は国道に面しており、車でのアクセスというのは非常に簡単である。ところが、列車で川上駅を訪れようとするとちょっと難しい。昼間は1本しか停車する列車がない。朝と夕方、夜を含めても7本だけというアクセスの悪さである。周辺には人家はおろか、人がいるという気配すらまったくない場所である。
別にマニアというほどではないが(といっても、普通の人からすればかなりマニアックではある)、これまでにもいくつかの秘境駅を訪ねてきた。代表的なのは飯田線の秘境駅の小和田、田本、金野であるが、これらの駅は車でのアクセスが不可能もしくは困難な駅で、一種の閉鎖空間のなかに駅がある。高千穂鉄道の影待も同様だ。一方、川上駅の場合は、国道が通っているため閉鎖空間という感じはしない。ただどうして、こんな無人地帯に、しかも古いながらも立派な駅舎の駅があるのかと不思議に思う。かなえることは困難ではあるが、真冬に来てみたいという気もする。
さて、その駅舎に一歩足を踏み入れてみる。駅舎の大部分の場所は、施錠がされているうえに窓に目張りがしてあって、中をうかがい知ることはできない。一角の部分にあたる待合スペースのみ居場所として確保されており、思ったよりはきれいに掃除されている。いろいろなサイトで「見苦しい」と言われていた落書きも、私が見る限りでは塗りつぶされていたようだ。
駅舎からホームに出ると、一面のホームに一列の線路だけの駅であった。ただ、連結跡が見られたので、ここもかつては交換駅だったことがしのばれる。ホームがあったであろう対面は、今は雑草に覆われて見る影もない。駅名板と古い駅舎を一緒に撮影するなど、しばらくの間は写真撮影に追われながらも駅やそのまわりをうろうろとする。国道は車の量こそそれほど多くはないが、時折静寂感を引き裂くようなトラックの音が聞こえたりもする。
国道沿いということもあって、この駅に滞在中の1時間半くらいの間に、時々車で駅に乗りつける人がいた。そのほとんどは、観光の途中に寄った人かマニアと思われる人であるが、なかには地元のドライバーもいた。ちょうど駅前が安全な休憩スペースになっていることもあるのだろう。車で乗りつけた人たちは、駅舎周辺をぐるぐる見て回ったあと、そそくさと駅を去っていく。もしかすると、こんな駅にいるはずもない乗客(私のこと)が待合室に陣取っていたからかもしれない。
せっかく来たのだからと思い、そのうちの一人の年配の男性に声をかけ、駅名板と駅舎と一緒に記念撮影のシャッターを押してもらった。アングル的に三脚でもないと撮影不可能だと思っていたので、これはたいへんいい記念になった。その方は旭川に住んでおり、仕事の関係でよく国道を通るのだそうだ。紅葉もほぼ終わりで、もしかすると10月中には一度雪が降るかもしれないと話していた。
駅を訪れる人が去ると、再び駅舎周辺には私ひとりとなる。先ほど、帯広駅で購入してきた「豚どんにぎり」を食べながら、しばしくつろぐ。駅舎内には、心に刻もう!ふるさと銀河線の会が作った川上駅の案内文や駅ノートがあった。駅ノートは最初の記載が新しかったので、つい最近設置されたようである。あるいは、以前のノートを持ち去られたために新設したのかもしれない。駅ノートは、旅人が自分の足跡を残していく大事なものなので、持ち去るような行為はやめてほしい。
案内文を読んでみると、この川上駅が大正8年に開業したことがわかる。たぶん、駅舎もそのときに設けられたのであろう。かつては林業が盛んで、材木の運び出しには鉄道は切っても切り離せなかった。このあたりもかつては入植者が多かったようで、川上駅も大正12年には一日平均80人という乗降客があったそうである。ただ、だんだんと林業も衰退し、それとともに駅周辺から人が去り、ついには駅だけが残る無人地帯になってしまったようである。それでも駅はなんとか存続してきたのであるが、今度はその駅にやってくる鉄道が廃止になってしまうのである。
(つづく)
そして北見へと・・・