カイゼルとは誰か?

 のちにヒトラーの支配する第三帝国が成立した。1934年、ヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首となったアドルフ・ヒトラーである。絶対権を持つから皇帝であるには違いないのだが、彼は自分を「皇帝」と呼ばせず、「総統」(Führer)と呼ばせた。

 だから、カイゼルという名前の皇帝とは見なせないようだ。

 普仏戦争の戦闘の最終的状況(91日、スダン、ムーズ川)を活写した記述があるのでご参考までに別項に添付する。(『クルップの歴史』()ウイリアム・マンチェスター、鈴木主税訳、フジ出版社 1982 P161

画像:プロイセン軍の野砲C/64、クルップ製1874
エッセン郊外のAltena城に保管されている。
これより古い野砲の実物はドイツには残っていないようだ。

 こうして普仏戦争に決着がついた段階になって、ビスマルクはオーストリアをのぞくドイツ民族各国代表者をヴェルサイユ宮殿に集め、ドイツ帝国の成立を宣言するにいたった(1871.01.18)。これまでの長いドイツの歴史とはことなり、皇帝ヴィルヘルム一世が初代ドイツ皇帝の座に就いた。勿論今回は、永続的に絶対権を有する支配者であった。

画像:アントン・フォン・ヴェルナーの描いた「ヴェルサイユ宮殿鏡の間でのヴェルヘルムの皇帝宣言」; バーデン大公(最上段で手を挙げている)が喝采の音頭をとっている。ビスマルクは中央右、白服を着ている。

 こうして普仏戦争が勃発する1870年にはプロイセンの経済力はフランスを抜いていたように思われる。

 細かく調べればわかることだが、普仏戦争はフランスのミトラィユーズ機関銃とプロイセンのクルップ砲との決戦であり、クルップ砲の(4パウンド鋼鉄製砲尾装填カノン砲)の優位性にナポレオン三世は是も非もなく屈した。疑いもなく、これはプロイセンの経済活動の勝利であるとみなされるべきだ。

 1866年、ドイツ民族のなかで身内の争いが起こり、普墺戦争が勃発した。

2. オットー大帝

ただし問題が二つあって、カール大帝の「ローマ皇帝」はその当時の東ローマ帝国の了承を取り付けていなかったので、皇帝の「僭称」であるとみなされていたこと。ならびにカール大帝が亡くなると、フランク王国は分裂して長期継続的政権とはなりえなかったこと。この二つである。

773年、ロンバルディアの王デシデリウスが教皇領に進軍し、ローマ教皇ハドリアヌス1世(在位:772年-795年)がカールに援軍を要請し、これに応えて、カール大帝は王デシデリウスをパヴィアで滅ぼし、取得したイタリア中部の領域を教皇に寄進した。

その後カール大帝は、ドイツのザクセン族の平定、スペインのエブロ河以北でイスラム勢力を討ち取り、ブルターニュ、ドナウ河中流、中央アジアのモンゴル民族を次々に平定した。彼は西暦80011月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、ローマへ出向き、時の教皇レオ3世(在位:795年-816年)から「ローマ皇帝」の称号をさずかった。

1. カール大帝

 アメリカの大学教授が「カイゼル・システム」という単語を使いましたので、なにげなしに「カイゼル・システム」という術語を使っているのですが、そもそもこの場合のカイゼルとは誰を指しているのでしょうか。
 この点をはっきりさせておかなければなりません。

 ドイツには歴史上カイゼルが四回現われました。次の四回です。

 このように注意深く調べてみると、「カイゼル・システム」のカイゼルとは、ビスマルク時代のカイゼルを指すことがはっきりする。第二帝国の皇帝であり、具体的には、ヴィルヘルム一世ということになる。

画像:アドルフ・ヒトラー

4. 第三帝国

出典:ケルン-ミンデン鉄道の機関車、1848年にベルリンのボルジッヒが製作したもの。

画像:ヴィルヘルム一世

 ドイツという国は、幸か不幸かわからないが、ナポレオンの蹂躙により、突然中世の眠りから覚め、近代国家への歩みを開始した。産業革命が遅まきながら自然発生的に生じ、19世紀前半のうちにドイツはフランスと肩をならべる経済力を持つにいたった。国家からの特筆すべき支援もなく、個人の企業家が血の滲むような思いをして機械産業、鉄鋼産業、通信事業を興したのである。(Gutehoffnungshütte, August Borsig, Krupp, Siemens等々)

 なお、別項にプロイセン王国の産業革命の実態をとりまとめた。ご参照乞う。

ケーニッヒグレーツの戦い
画像:ケーニッヒグレーツの戦闘の際の負傷者の救護
186673日:プロイセンはケーニッヒグレーツにおいてオーストリアに勝利する。

 カール大帝が亡くなってから約120年後、ザクセンにオットー大帝が出現し、彼は絶対統治権を主張し、これを実行したので、ドイツはふたたび帝国位を回復するにいたり、936年、カール大帝に倣い、戴冠式をアーヘン大聖堂で挙行する。その後、身内の反乱を抑え、マジャール人を撃退した功績が認められて、9622月、ローマにおいて教皇から皇帝の冠を授けられた。「神聖ローマ帝国」の国号はこの時点をもってスタート・ポイントとするのである。

画像オットー一世のローマ皇帝冠。頭部のアーチと赤いベルベットは後世のもの。ウイーン王宮宝物館

3. ドイツ帝国

画像:モンツァ大聖堂に保管されているロンバルディアの鉄王冠
  はじめランゴバルド王国(ロンバルディア王国)の、のちに中世イタリア王国の王権の象徴とされた。
  この王冠は黄金のサークレットの内側に幅1cmほどの鉄の輪を取り付けた構造になっている。この鉄の輪は、キリストが磔にされた際に使用された釘(聖釘)を叩き伸ばして細い帯状にしたと伝えられており、このことから「鉄王冠」と呼ばれ、また聖遺物とされている。
  10世紀以降、神聖ローマ皇帝は同時にイタリア王でもあった。多くの君主はローマに赴き、神聖ローマ皇帝として戴冠するのだが、その途次ロンバルディアに赴いて鉄王冠を戴冠し、イタリア王に就く儀式を行った。カール大帝やオットー大帝、ハインリヒ4世、フリードリヒ1世バルバロッサなどの有名な皇帝も鉄王冠で戴冠している。
  金と銀が80%、直径は15センチ、重さは535g

カール大帝が亡くなったあと、相続問題でフランク王国は分裂した。帝国というものが絶対的支配権を有する一人の王によって統治されるものであるとの定義に立てば、カール大帝が亡くなったあと、フランク王国は帝国位を失い、群雄割拠の状態に陥った。

画像:オットー一世を写したとされる「マグデブルクの騎士」c.1240、マグデブルク文化歴史博物館

画像:オットーが(951年、イタリア王)ベレンガーリオ二世に勝つ。オットー一世は、服従の徴としての剣を左に跪く王から受け取っている。この王はベリンガリウスとして示されている。オットーの従者は一本の剣を先端を上に向けて保持している。これは権力の象徴である。世俗史書フライジングのオットーの写本の挿絵、1200年頃(Mailand, Biblioteca Ambrosiana, Cod. S.P.48, olim F 129 Sup.)

画像:アーヘンの大聖堂にあるカール大帝の玉座とされる椅子

画像:カール時代のフランク王国(がカール即位時のフランク王国、赤橙
  がカールの獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)

:アルブレヒト・デューラー、カール一世、
 ニュールンベルク、ドイツ国立美術館