画像:ドイツ統一戦争の一部
左上から時計回りに時計回りに:
スピシュランの戦いにおけるプロシア軍歩兵隊 ; 1870.08.06
ジニオ画「砲火前線」 (1886)、マルス・ラ・トゥールの戦いを描く ; 1870.08.06
ヴェルナーの描くスダンの降伏 ;1870.09.02
ヌーヴィルの「最後の銃弾」、バセイユの戦いを描く;1870.09.01

:ユリウス・コサック「グラヴロットの戦い」。グラヴロットでのプロイセン軍を描く1871年画。

 グラーヴロットあるいはグラーヴロット・聖プリヴァの会戦は普仏戦争で最大の戦闘であった。これは1870818日、ロレーヌ地方メスの約6マイル(10km)西方で戦われた。その前日、マルス・ラ・トゥールの会戦でフランス軍の西方への撤退を遮断し、プロシャ軍はフランス軍勢力の破壊を完結するために迫ってきた。

 陸軍元帥ヘルムート・フォン・モルトケ伯の下で合同したドイツ軍勢は、プロシャの北ドイツ同盟の第一と第二軍団でその内訳は、約210歩兵大隊、133騎兵大隊ならびに732基の重砲で、合計は188,332名の士官と兵員だった。フランスのライン軍団はフランソワ・アーキーユ・バザイヌによって指揮されて、約183歩兵大隊と104の騎兵大隊と520基の重砲で、総計112,800名の士官と兵士であり、ロゼリューユの町に南左翼、聖プリヴァに北右翼を構え高地に塹壕を掘っていた。

賛美歌100番、別名『われらが神は堅き砦』(Ein feste Burg ist unser Gott

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ヨハン・ゼバスティアン・バッハが17241031日の宗教改革記念日のために作曲したと推察される教会カンタータ。全8曲からなり、マルティン・ルターコラール、「神はわがやぐら」全4節をそのまま取り込んだ曲

クルップ野砲の優位性

 1866年の普墺戦争の際はガス漏れによる破裂事故をおこし信頼性がもう一つだったクルップ社の大砲は、普仏戦争になってはじめて真価を発揮した。

   普仏戦争の際のクルップ野砲の優位性を示す戦闘の実況描写(91日、スダン、ムーズ川)の描写を『クルップの歴史』()(ウイリアム・マンチェスター、鈴木主税訳、フジ出版社 1982 P161)から引用しよう。

フランス軍の旧式な青銅製の大砲はクルップ社製の鋼鉄製野砲の射程距離にかなわなかった。戦争での用兵技術は鉄鋼製の大砲の前に屈服した。

これ以降、世界中でクルップの野砲がベスト・セラーとなった。

一般に、普仏戦争におけるドイツの勝利は、

  1. プロイセンの経済規模の飛躍的な拡大が背景にあり、
  2. モルトケのたくみな戦術によって指揮され、
  3. クルップ社の鋼鉄製大砲の技術的優位性と、
  4. ヴィルヘルム・シュティーバーによる勝れた情報収集能力

によるものであるとされている。

画像:観戦場所フレノワ(Frénois)はスダンの西南西3kmにある。
地図:
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画像普仏戦争1870. フランス軍によるメスの防衛

 バザイヌ元帥のライン軍団によるグラヴロットでの敗北にともない、フランス軍はメスへと撤退を強制され、そこで15万人以上のプロシャ軍第一、第二軍団によって包囲された。1027日、18万人の兵隊が降伏してフランス側のそれ以上の壊滅的な損失は封鎖された。

画像:カール・リヒター、ミュンヘン・バッハ合唱団と管弦楽団

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Bismarck conversing with Napoleon III after the Battle of Sedan, 1870.09.02