私が作製した「喜多源逸年表」を読んでいただければ、次のことがご理解いただけると思う。


1.
 大正
9(1920)理研喜多研究室が京都帝大のなかに発足したときに、日本国の「国家の意思」ともいうべきナショナル・プロジェクトが組み上げられた。費用は全額国家負担とし、「未来に向かって、費用を構わず、未知の技術を開発する」ことが目的とされた。

2.
 喜多源逸は、1929年から始まった世界恐慌の最中に、桜田一郎、児玉信次郎を続けてカイザー・ヴィルヘルム化学研究所へ留学させた。これが日本版カイゼル・システム化学版の中心構造を作り上げた。彼らがベルリンで学んだのは次である。

       合成繊維製造実験(桜田一郎)

       量子力学の学習(児玉信次郎)

桜田一郎の海外留学は日本で最初の合成繊維、ビニロン、の発明につながった。

また、児玉信次郎の留学は日本の量子力学研究の基礎となり、ここから、湯川秀樹、福井謙一のノーベル賞が招来される結果となった。

写真:理研喜多研究室が発足したときには、まだこの時計台はなかった。

原典の説明の引用:まだ時計の針がありません。京大の時計台は、1925(大正14)年に竣工しました。もともとこの場所には、第三高等中学校以来の本館がありましたが、1912(大正元)年に焼失しており、10年以上の空白の後の完成でした。

 東京帝大の先輩とのいざこざがあり、大5(1916)に京都帝国大学に移籍して翌年第一次世界大戦の最中だったため、心ならずも米国留学をした。本心は化学研究の本場であるドイツに留学したかったのである。

 帰国後、大正9(1920)大河内正敏の引き立てにより京都帝大のなかに理研喜多研究室が発足したときが、日本のカイゼル・システム化学部門のスタート・ラインだったと結論付けて良いだろう。この後、1960年代まで日本の化学はこの京大カイゼル・システムに席巻されることになった。

たとえば、カイゼル・システムのうちには、国体の基本となる憲法がふくまれていた。この憲法は欽定憲法(君主が民衆の意向を計らずに定めた憲法)で、その中味はプロイセン憲法の丸写しだった。ドイツから導入されたこの欽定憲法は、第二次大戦終了とともに廃止されてしまったので現在の日本の国体のなかには残っていない。だが、憲法と同時に導入されたカイゼル・システムのなかには、いまだにかなりのシステムが日本の社会に残留し、日本の民主主義の障碍となっている。そして、これが原因で、日本の真の独立が阻害されている。

 では、今現在日本に残留しているカイゼル・システムとはなにか。それらはどのような悪弊を我々に与えているのか、これをその生成のときに遡って検証し、明らかにするとともに、改善策を練り上げていくことが本論の目的である。

 喜多源逸の事跡を辿れば容易に明らかになるのは、現在の日本におけるナショナル・プロジェクトの不在なのであるが、このような未来の日本を支えるプロジェクトを発進させることも大切だが、それよりも先に、過去のカイゼル・システムについて見直しておくことも非常に大切である。

 私がこれから語ろうとしていることは、非常な成功をおさめた化学のカイゼル・システムを除く、他の分野のカイゼル・システムである。

9.
 ナショナル・プロジェクトの創設

 国家の権威がナショナル・プロジェクトの存在によって表象されるべきだ、と考えるならば、ナショナル・プロジェクトの喪失は国家としての権威の喪失である、と考えられよう。

 このような場合、次世代を担うナショナル・プロジェクトを創始すべきである、と考えるのが当然だ。

 しかしながら、第二次世界大戦の終了とともに、日本はかつて日本がもっていたナショナル・プロジェクトを失ってしまった。

 現在日本は表面的に満ち足りた社会になっているが、それはあくまで小市民的満足感にとどまり、後進国に追い上げられる短期的な満足感にすぎない。シンガポールのリー・カン・ユー元首相は「日本はそのアイデンティティーを失っている」と酷評した。

6.
 ナショナル・プロジェクトの焼却処理による証拠隠滅措置

 ドイツより導入したカイゼル・システムの特質として、事後に(敗戦という場合に)、一切の書類を焼却処理したことも(消極的な)特徴として挙げられよう。但し、研究の実質的内容は工業化学概論(上・中・下)という書物に纏められて残された。

7.
 
戦後における多大で広範囲な影響

 第二次大戦における無条件降伏という事態にもかかわらず、朝鮮戦争という僥倖にもめぐまれ、このカイゼル・システムによる研究成果は花が開き、日本の高度成長期を支え続けた。この高度成長はカイゼル・システムというナショナル・プロジェクトが存在しなかったならば、期待しえなかった。

写真

 明治16年奈良県に生まれた喜多源逸は、明治36(1903) 東京帝国大学工科応用化学科に入学し、明治39(1906)に卒業して、その後、講師(1907)を経て、明治41(1908)に助教授となった。その後、理化学研究所長大河内正敏に引き立てられたところから推察すると、大学での成績は首席を続けた、と考えられる。

 化学の分野でのカイゼル・システムは次のような時系列を伴って進行した。立役者は喜多源逸である。

写真150t/day NEDO石炭液化パイロットプラント、茨城県鹿嶋市

 このパイロット・プラントの母体となった京都大学構内の石炭液化実験プラントについては写真も残されていない。戦争終結前に資料はすべて焼却処分されたようである。

写真:カエルと金のまり、グリム童話、Steinau an der Strasse

写真:ナショナル・プロジェクトの例。NASAによる月面着陸、NASA - 宇宙飛行士,ローバー,月面の旗 - ©Spaceshots

写真旧カイザー・ヴィルヘルム化学研究所(現ベルリン自由大学Otto-Hahn-Bau

日本化学界のカイゼル・システム

研究対象としては、たとえば、生命化学(山中教授iPS細胞利用のテクニクス)や日本ではほとんど手がつけられていないUFO研究、特に時空移動の解析が適しているだろう。既存技術の延長で処理出来る技術は対象からはずすべきである。

費用は、実証実験までの費用をカバーするものとして全額国庫負担とすることとし、総額はとりあえず1兆円。その際、費用対効果は50倍程度を想定するとともに、利益回収のための企業選定は予め行っておく。

日本の国費を使用する基礎研究であるから、研究者は日本国籍を有する者に限定し、厳重なセキュリティーを確保することとし、研究成果については対外極秘とすべきである。

8.
 ナショナル・プロジェクトの喪失

5. 理念の形成

-自主独立という京都大学の理念

模倣によらない独創的技術とそのための
    基礎研究の重要性という喜多イズム

1911年に創設されたドイツの「カイザー
    ・ヴィルヘルム協会」を模して構想された

    理研精神

はいずれも、費用は全額国庫負担とする、近未来の技術の模索と、パイロット・プラントにいたる製造前実験を、ナショナル・プロジェクトという形で実現することを前提として成立する理念であった。つまり、これらの理念は国家の意思が定まったのちに形成された標語に過ぎない。

3.
 喜多源逸は、
理研喜多研究室を使用して優秀な人材を大学外に流出させず、ナショナル・プロジェクトに人材を集中させる体制を組み上げた。

             

4.
 
第二次世界大戦中は、ドイツからU-ボートで運び込まれる機密資料に基づき、戦略物資の基礎研究ならびに製造実験プラントを立ち上げた。

      石炭液化パイロット・プラント
   (陸軍燃料研究所費用)

      合成ゴム製造実験
      ポリエチレン製造
      パイロット・プラント

画像:大河内正敏