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記譜習慣について
 
バロック時代の記譜法には独特のルールや暗黙の了解などがありました。
また当時は作曲者=演奏者であることが多かったため、
しばしば必要最低限の情報しか書き残されませんでした。
そのため当時の楽譜は時として不正確なものとなり、
譜面と実際の演奏が別物になっていることも稀ではありませんでした。
 
ただでさえ当時の演奏習慣を知らないわれわれにとって、
当時の楽譜を見て作曲者の意図どおりに演奏するのは困難です。
作曲された当時ですら、時に誤った解釈で演奏されていたのですから・・・。
 
おそらくこうした実情を受けて、バッハは慣例的に不正確な記譜をした曲を、
のちに実際の演奏に近い形で記譜し直すことがありました。
またF.クープランやC.Ph.E.バッハ、J.J.クヴァンツなどのように、
当時の演奏習慣を教本の形で残してくれる音楽家もいました。
 
こうした原典や資料をもとに、「フーガの技法」の演奏において
特に問題となる記譜方法を確認していきたいと思います。
 
 
1.アラ・ブレーヴェ
 
演奏のテンポ の1.に示したとおり、当時の拍子記号¢は、
演奏される音価が記譜されている音価の1/2となります。
つまり2分音符1拍を4分音符1拍の速さで弾くことを意味しています。
この場合の¢拍子はアラ・ブレーヴェ・タクトと呼ばれ、
通常は当たり前のように何の説明もなく用いられていますが、
カンタータ楽章などでは時に"allabreve"の記載が見られます。
本来"alla breve"と書くべきですが、バッハは間のスペースなしで書きます。
 
ただし¢は序曲や舞曲、協奏曲など
アラ・ブレーヴェ以外の様式にも用いられるため、
アラ・ブレーヴェたる条件を満たしており、
かつ他の様式に該当しないことを見極める必要があります。
 
例えば8分音符よりも短い音価の音符が多用されている場合には、
狭義のアラ・ブレーヴェの条件からは外れることとなります。
すなわち付点8分音符のリズムで記譜されたContrapuncus2や
さらに3連符も加わった3声の鏡像フーガなどは、
単純に音価を1/2にしただけのテンポというわけには行かず、
曲の内容を把握、吟味した上で判断することとなります。
 
 
2.ノート・イネガル
 
バロック音楽には種々の即興的な装飾手法がありますが、
ノート・イネガルは比較的良く知られたものといえるでしょう。
フランスの音楽から広まった手法で、同じ音価の音符による
順次進行などにおいて、例えば以下のようにリズムを変更します。
 

 
上の譜例ではバッハの書き方に準じて付点音符としましたが、
先の音をどのくらい伸ばすかは曲のテンポや奏者の趣味で異なり、
バッハはおおむね3連符のリズムで奏していたようです
 
通常ノート・イネガルの指示が楽譜に記されることはなく、
しかも往々にして曲の一部において行われるため、
どのように実践されていたのか把握するのが極めて困難な手法です。
 
そんな中バッハは時折イネガル化する音符にスラーを付します。
「フーガの技法」ではContrapunctus2において顕著です。
この曲は自筆譜において8分音符の連桁が、あとから付点音符に
変更されたことが知られていますが、印刷譜に付されたスラーから、
この変更がイネガル化であったものと考えられるのです。
 
他の曲にも同様のスラーが付された例があります。
楽譜に書き残されたものを即興的装飾とは見なせないかもしれませんが、
バッハがしばしばフーガを即興的に作曲したことを考えれば、
作曲者の演奏状況を伝える貴重な記録と言えるのではないでしょうか。
 
 
3.付点音符
 
バッハの時代の付点音符は定義がややあいまいで、
基本的には付点が付けられた音符の音価を1.5倍にしますが、
用いられた状況などによって伸ばす長さが変わってきます。
 
付点音符の音価が1.5倍より長くなることも短くなることもありますが、
多くは1.5倍よりも長く伸ばし、続く音符をその分短くします。
 
これについてC.Ph.E.バッハは「正しいクラヴィーア奏法」(1753)の
第3章§23において、付点4分・8分・16分音符を示して、
いずれもあとに続く短い音符はそれ自体の音価より短くなると説明し、
その奏法を次のような例で示しています。
 

 
わかりづらいですが、縦に揃えて並べられている8分音符と16分音符、
16分音符と32分音符を、いずれも同時に弾くという趣旨の例です。
 
J.J.クヴァンツは「フルート奏法」(1752)の第5章§21で、もっと具体的に
付点4分音符よりも短い付点音符では普通の規則から外れるものとし、
以下のような譜例を挙げて、いずれも付点のあとの音を
64分音符くらいの長さで奏すように促しています。
 

 
ここで付点音符の演奏のあいまいさが明るみに出てきました。
C.Ph.E.バッハは付点4分音符にも引き伸ばしを適用し、
J.J.クヴァンツは付点4分音符より短い音符に適用しているのです。
 
これについてC.Ph.E.バッハやF.W.マルプルクは、
正しい演奏どおりに記譜することを推奨しています。
J.S.バッハはといえば、実験4実験5に示したように、
短い方の音符に合わせたほうが良いと思われるケースでも、
古い習慣のままにそれぞれの音価で記譜しています。
 
そのContrapunctus6において、分析室2のVIIに示したとおり、
付点のついた音符を1.5倍より短く奏するべき箇所については、
あるべき奏法に従って書き改められています。
 

 
というのもC.Ph.E.バッハが著書の同章同節で詳述しているとおり、
付点音符に続く音符が2音以上の場合にも、
それらをまとめてできるだけ短く奏するという習慣もあるからです。
J.S.バッハはそのように弾かれることを避けるために、
手間を惜しまず曲全体を書き直したのでしょう。
 
もう一つ付点音符が1.5倍より短くなるケースとして、
次の3音符対2音符のような記譜習慣もあります。
 
 
4.3音符対2音符
 
3連符と付点音符が平行して用いられている場合、
付点音符のあとの短い音符を3連符の3つ目の音に合わせます。
つまり付点音符の方は実際の演奏どおりには書かれていないのです。
  

 
この記譜習慣はロマン派の時代まで根強く残っていて、
ショパンの作品の中で見た方もいることと思います。
従って付点音符をそのまま弾くべき時にこそ説明が添えられ、
ベートーフェンの「月光」第一楽章でもツェルニーが注意喚起しています。
 
6拍子や12拍子において付点音符が用いられる場合も同様で、
付点音符の2音を1拍3音の第1音と第3音に合わせます。
時として付点音符ではなく同じ長さの2音が書かれることもありますが、
この時も付点音符の場合と同様に3音符のほうに合わせます。
  

 
さて、後代まで伝わった記譜法であれば演奏には難儀しない、
かと思えばそうでもなく、しばしば弾き方に悩む箇所に出くわします。
例えば3音符の方は半分の音価の6音符となったり、
付点音符の方は続く短い音符が2音以上になったりと、
さらに細かい音符に分割されることがあるためです。
 
こと合奏曲などでは悩むどころかどう弾くのかわからないこともあり、
パートごとバラバラでも良いんじゃないの?と諦めたくなります。
 
「フーガの技法」では3声の鏡像フーガやその編曲、
10度のカノンなどがこの記譜法で書かれており、
この手の作品の中では問題箇所が比較的少ない方ですが、
例えば以下の箇所では思わず手が止まってしまいます。
 

付点の付け忘れはありません。念のため。

果たしてバッハの時代に3音符と4音符を同時に弾いたのか、
それとも何らかのリズム合わせを行ったのか。悩みは尽きません。


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