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演奏のテンポ
 
J.S.バッハが残した鍵盤独奏用のフーガには、
演奏のテンポに関わる楽語などを記されたものがほとんどありません。
「フーガの技法」も例外ではなく、強いて言えばContrapunctus6に
"in Stylo Francese"と書かれているだけで、ほかには一切ありません。
 
一方、同じ鍵盤独奏曲でも協奏曲やオルガン用のトリオソナタでは、
楽章ごと冒頭にAllegroやAndanteその他の楽語が記されています。
また合奏用の協奏曲やカンタータなどの機会音楽においては、
時に詳しく緩急の切り替えまで書き込まれた作品もあります。
これらは少なからずテンポに関する情報をもたらしてくれます。
 
またバッハの弟子の一人であるJ.Ph.キルンベルガーは、
「純正作曲の技法」(1776)の中で演奏のテンポについて
「曲の拍子と、音符の時価の長い短い」によって判断され、
付された楽語によって加減されることを説明しています。
(引用は東川清一訳によります。)
さらにJ.J.クヴァンツは「フルート奏法」(1752)の中で、
テンポに関わる楽語や舞曲の種類に応じたテンポの目安を、
人間の脈拍(1分間に約80回)に基づいて示しています。
 
こうした当時の手がかりに基づいて、研究者の立場から、
テンポという難題に取り組んでみたいと思います。
 
すでに数多くの演奏があるのに、何でいまさらテンポが難題?
そう思われるかもしれませんが、例えばContrapunctus1では
ピアノ演奏において演奏時間3分未満のものから5分を超えるものまで、
奏者によって実に倍以上の違いがあるのです。
 
もちろんバッハ自身が、その日の気分で同じ曲を
早く弾いたりゆっくり奏でたりしていたわけではないでしょう。
私はバッハ作品として、また当時の演奏スタイルとして、
「フーガの技法」演奏の妥当なテンポを模索します。
 
ただその前に一つ厄介なのが、当時の記譜習慣において
作品の音価が正しく示されていないことがあるということです。
そこでまず「フーガの技法」各曲の音価を見極めるところから始めます。
 
 
1.拍子記号の表す音価
 
「フーガの技法」各曲の拍子記号は、その多くが¢ないしCとなっています。
もちろん¢は2/2拍子、Cは4/4拍子を表しますが、別の意味もあります。
J.Ph.キルンベルガーの「純正作曲の技法」(1776)
第2部第4章によれば、¢は特段テンポの指示がない限り、
「使用された音符の時価が示すよりも2倍の速さで演奏される」のです。
(引用は東川清一訳によります。)
 
J.J.クヴァンツの「フルート奏法」(1752)の第17章第7節§50でも、
¢では「すべての音価が4/4の場合の半分になる」とされています。
さらに3/4拍子や12/8拍子の曲で16分音符が最小音価の場合には、
8分音符の時に比べて「テンポが半分になり、中庸の速さ」となります。
(引用は全て荒川恒子訳によります。)
 
これらを「フーガの技法」各曲に当てはめてみると、
例えばContrapunctus1〜4は2分音符が4分音符の長さになりますし、
印刷譜において音価が自筆譜の2倍に変更された8や11、鏡像フーガ、
反行拡大カノンなどは、実質音価に変わりはないことになります。
Contrapnctus1を演奏される音価に直すと、以下のようになります。
 

 
つまり出版譜の譜面からは8ビートのように思われる曲が、
自筆譜を演奏の音価に直すと実は16ビートだったということになります。
そうとわかれば演奏の実践的な知識に乏しい私でも、
「ああ小フーガのテンポね」となんとなくイメージがつかめます。
 
「フーガの技法」の譜面が示す実質の音価を以下の表にまとめます。
ただし、Contrapunctus5、9、10及び未完フーガの4曲は、
いずれも印刷譜では拍子がCとなっていますが、
これはどう見ても¢の誤りと考えざるを得ません。
というのもこれらの曲に書かれた8分音符の連桁を
2個ずつに分けて演奏するなど考えられないからです。
D.Moroneyもこの誤りを指摘しており、ヘンレ版は全て¢に訂正されています。
 
各曲のタイトル
自筆譜
出版譜
拍子
記号
開始音
拍子
記号
開始音
記譜
実質
記譜
実質
Contrapunctus 1
Contrapunctus 2
Contrapunctus 3
Contrapunctus 4
-
-
-
Contrapunctus 5

※1
Contrapunctus 6 a 4
in stylo Francese
C
C
Contrapunctus 7 a 4
per Augment et Diminut
C
C
Contrapunctus 8 a 3
2/4
Contrapunctus 9 a 4
alla Duodecima
C

※1
Contrapunctus 10 a 4
alla Decima
C

※1
()
()
Contrapunctus 11 a 4
2/4
Contrapunctus inversus 12 a 4
/Contrapunctus inversus a 4
3/4
3/2
Contrapunctus a 3
/Contrapunctus inversus a 3
2/4

※2
Canon per Augmentationem
in Contrario Motu
C
Canon alla Ottava
9/16
9/16
Canon alla Decima
Contrapunto alla Terza
-
-
-
C12/8
※3
Canon alla Duodecima
in Contrapunto alla Quinta
-
-
-
Fuga a 2 Clav.
/Alio modo Fuga a 2 Clav.
2/4
2/4
Fuga a 3 Soggetti

※1
※1 出版譜ではCとなっていますが、上記の理由で¢とします。
※2 転回形(鏡像)はCとなっていますが、※1同様に誤りと思われます。
※3 Cと12/8が併記されています。カンタータにも時折見られる混合拍子です。
 
こうなると出版の際に音価が2倍に変更されたと思っていた曲も、
演奏する音価においては変更がなかったことになります。
 
 
2.他の作品に示されたテンポ
 
先に述べたように、J.S.バッハは鍵盤独奏用の協奏曲や
トリオソナタにおいては、楽譜にテンポに関する楽語を記しています。
例えばクラヴィーア練習曲集第2巻の協奏曲ヘ長調BWV971では、
第二楽章にAndante、第三楽章にPrestoの記載があります。
 
そこでそうした他の作品の中から、「フーガの技法」に用いられたのと
同じ拍子記号で書かれており、かつフーガ様式で作られ、内容的にも
類似した曲に付された、テンポに関連する楽語を見てみたいと思います。
参考として室内楽曲からも例をあげ、該当する曲がない場合は、
拍子記号や実質の拍子が一致する鍵盤作品を探しました。
カンタータなど声楽曲にも類似した楽章があるのですが、クヴァンツによると宗教曲は
厳かにややゆっくりと奏するものだったらしいので、ここでは参考としませんでした。
 
@¢で8分音符が最小音価(16分音符の装飾あり)
該当する曲:1、(2、)3〜5、8〜11、拡大カノン、12度のカノン、未完フーガ
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
526-3
オルガン トリオソナタ 第3楽章
172
Allegro
530-3
オルガン トリオソナタ 第3楽章
77
Allegro
1001-2
無伴奏ヴァイオリンソナタ 第2楽章
94
Allegro
1014-2
ヴァイオリンソナタ 第2楽章
141
Allegro
1026
(ヴァイオリン用フーガ)
181
Allegro
1027-4
チェロソナタ 第4楽章
142
Allegro Moderato
=1039-4
1030-3
フルートソナタ 第3楽章
83
Presto
1039-4
フルートソナタ 第4楽章
142
Presto
=1027-4
1049-3
協奏曲 第3楽章
244
Presto
=1057-3
1057-3
鍵盤協奏曲 第3楽章
244
Allegro assai
=1049-3
 
ACで16分音符が最小音価(32分音符の装飾あり)
該当する曲:(1〜3、6、)7、9、10、拡大カノン
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
1017-2
ヴァイオリンソナタ 第2楽章
109
Allegro
1018-2
ヴァイオリンソナタ 第2楽章
24+36
Allegro
1019-1
ヴァイオリンソナタ 第1楽章
91
Allegro
1024-2
ヴァイオリンソナタ 第2楽章
167
Presto
1061-3
鍵盤協奏曲 第3楽章
140
Vivace
 
B2/4で16分音符が最小音価(32分音符の装飾あり)
該当する曲:(1〜5、)8、(9、10、)11、拡大カノン、12度のカノン、未完フーガ
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
529-3
オルガン トリオソナタ 第3楽章
163
Allegro
1017-4
ヴァイオリンソナタ 第4楽章
118
Allegro
1047-3
協奏曲 第3楽章
139
Allegro assai
1063-3
鍵盤協奏曲 第3楽章
224
Allegro
1079-13
トリオソナタ 第2楽章
249
Allegro
 
C3/4で16分音符が最小音価(32分音符の装飾あり)
該当する曲:4声の鏡像フーガ
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
525-3
オルガン トリオソナタ 第3楽章
32+32
Allegro
1015-2
ヴァイオリンソナタ 第2楽章
121
Allegro assai
1016-4
ヴァイオリンソナタ 第4楽章
153
Allegro
1027-2
チェロソナタ 第2楽章
113
Allegro ma non tanto

D3/2で8分音符が最小音価(16分音符の装飾あり)
該当する曲:4声の鏡像フーガ
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
1051-2
協奏曲 第2楽章
62
Adagio ma non tanto

E12/16で16分音符が最小音価(32分音符の装飾あり)
該当する曲:(2、) 3声の鏡像フーガ、2台の鍵盤編曲
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
811-7
組曲 第7楽章 ジーグ
24+32
816-7
組曲 第7楽章 ジーグ
24+32

F12/8で8分音符が最小音価(16分音符の装飾あり)
該当する曲:(2、) 3声の鏡像フーガ
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
808-7
組曲 第7楽章 ジーグ
24+26
827-7
組曲 第7楽章 ジーグ
20+24

G9/16(3/8で3連符)で16分音符が最小音価(32分音符の装飾あり)
該当する曲:8度のカノン
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
527-3
オルガン トリオソナタ 第3楽章
180
Vivace
528-3
オルガン トリオソナタ 第3楽章
97
Un poco Allegro

H12/8で16分音符が最小音価(32分音符の装飾あり)
該当する曲:10度のカノン
BWV番号
作 品
小節数
用語
備考
1027-1
チェロソナタ 第1楽章
28
Adagio
1043-2
ヴァイオリン協奏曲 第2楽章
50
Largo ma non tanto
=1062-2
1060-2
鍵盤協奏曲 第2楽章
37
Adagio
1062-2
鍵盤協奏曲 第2楽章
50
Andante
=1043-2
 
¢は音価半分に加えて、多くがAllegroやPrestoでした。
Cや2/4においてもAllegroが多かったです。
これら偶数拍子のフーガは概ねアップテンポだったようです。
 
ただしContrapunctus6については32分音符が頻繁に用いられ、
同じ拍子で書かれたContrapunstus7や9・10(自筆譜)などと
同様のテンポで奏するのは、著しく困難です。
このためAの表に該当する曲としては()付きで挙げてあります
 
またContrapunctus2については曲全体が8分音符の付点リズムで
書かれており、その弾き方によってテンポが変わってきます。
@AやEFの表に該当する曲として()付きで挙げたのはこのためです。
 
最も悩ましいのは、Cの表にある16分音符を最小音価とした3/4です。
J.J.クヴァンツの説明どおりなら中庸なテンポとなるはずですが、
ここに見出された例には全てAllegroの指示がありました。
 またEやFの表に示した12拍子のジーグにおいては、
テンポに関する楽語が一つも見られませんでした。
 
これらの曲については、同様の曲から類推するだけでなく、
曲の様式を見極めて、該当するテンポを判断すべきでしょう。
 
 
3.様式とテンポ
 
先述したとおりContrapunctus6には"in Stylo Francese"の語が
付されていますが、分析室1示したとおり、一般にこれは
フランス風序曲のような付点リズムによるものと解釈されています。
 
当時序曲は演奏のテンポが自明であったため、
テンポに関する楽語が付されることは少なかったのですが、
例えばカンタータ第97番においては、序奏部にはGrave、
続くフーガ風の模倣にはAllegroの語が付されています。
 
またバッハの、ないし当時の楽曲はしばしば舞曲の様式に則って
作られていましたが、舞曲のテンポも当時は説明不要で、
テンポに関する楽語などを付されることはほぼありません。
つまりそれとわかるように舞曲様式で書くこと自体が、
テンポの指示となっていたといっても過言ではないのです。
 
転回対位による2曲のフーガ、いわゆる鏡像フーガは、
どちらも比較的わかりやすい舞曲様式で書かれています。
4声の鏡像フーガはサラバンド、3声の鏡像フーガはジグです。
全曲8分音符の付点リズムで書かれたContrapunctus2も、
付点リズムの演奏解釈によってはジグといえるかもしれません。
 
こうした特定の様式で書かれた楽曲については、
上の1.に示した音価の規則に加えて、
様式独自のテンポ解釈が加わることになります。
 
 
4.演奏速度
 
さてこれまで、記譜によって示される演奏の音価や、
類似する楽曲に付された楽語、楽曲の様式などから
各曲のテンポに関連する情報を集めてきました。
 
あとはこれらの楽語や様式がどのくらいの速度で奏されていたか
情報が得られれば、曲ごとにおおよそのテンポが把握できるでしょう。
そして上記のとおり、クヴァンツが楽語や舞曲の種類ごとに
脈拍に基づいたテンポの目安を示してくれているのです。
ゴールはもうすぐです。
 
ところでクヴァンツはテンポの目安を示した上で、
次のように述べています。
 
「上記のようにしてさらに長い多様な経験を積めば、
各音を正しい音価に分割できるのみならず、たいていの場合、
各楽曲に対して作曲家が想定したテンポを正しく推察できる。」
(荒川恒子訳)
 
言い換えると正しいテンポ感覚を身に付けることが必要で、
そのためには長い修行が必要になる、ということのようです。
 
・・・なんだか振り出しに戻ってしまった感もありますが、
これまでに得られた情報に基づいて、別途個々の曲ごとに
妥当な演奏速度を推定してみたいと思います。


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