『宗教的経験の諸相』上 P231
形而上学的な解決



 ところが、このようなことに、心からの深い驚きを受ける人間がある。
ものごとがよそよそしく見えるのは間違っているのだ。実在しないものな
どあるはずがない。なにか神秘が隠されているのだ、形而上学的な解決が
あるにちがいない。もし自然界がそのように二つの顔をもったもので異邦
のようなものであるなら、一体、どんな世界、どんな事実が実在するので
あろうか? そういう切実な驚異の念と疑問が起こり、それが理論的活動
への没入となり、ことの真相を明らかに?もうとする必死の努力となって、
ついに、その苦悩する人間は、しばしば、宗教による解決にはじめて満足
を見いだすにいたるのである。

 五十歳の頃にトルストイは、彼の惑いの次期が始まった、と述べ、・・
・・・



筆者注:

 トルストイについては古い本だが、米川正夫訳『わが懺悔』創元
1950、があるからこの本を読むこと。

頭だけで考えてはいけない。

鳩摩羅什はインド人の子供で、幼少のころから座禅に親しんでい
た。鳩摩羅什が長安にやってきてはじめて「仏教=座禅」が中国人
に正しく理解されることとなり、最初の仏教ブームが生じた。詳し
くは
を参照せよ。仏教哲学は体験なのであり、仏教の基本は座禅
である。仏像の釈迦像は常に座禅を組んでいることに注目せよ。道
元の言葉「只管打坐」を思い起こせ。

『宗教的経験の諸相』上 P245
まったき絶望、恐怖の塊



 これ以上実例を示す必要はない。私たちが考察した例で充分である。その実例の一つは、死滅する事物の空しさを、もう一つは、罪の感じを語っている、そして残る一つは宇宙の恐怖を述べている。――そして、それら三つの道のどれをとっても、人間の生まれながらの楽観主義と自己満足とが塵にも等しいものになってしまうのである。



筆者注:

神秘体験に達したときの心境は、神秘体験に到達した人たちによってしか理解されることがない、といわれる。ここにジェイムズが端的に述べる「死滅する事物の空しさ」、「罪の感じ」、「宇宙の恐怖」についても、事情は同じである。ジェイムズは、自覚はしていないが、B体験者であり、B体験を説明しているのだが、B体験を経ていない人たちにはこれらの説明は理解されない。もちろん、説明されたからといって、これらが自分に起こり得る事態だとは、ひとは考えない。要するに「ひとごと」扱いされるのである。

 医者にこのような「まったき絶望」状態を説明すると、医者にも理解できない事態であるから、「病理学的に判断せざるをえない」と診断される。 現代の問題の核心が実にここに存在するのである。



『宗教的経験の諸相』上 P245(続き)

 これらの例のいずれの場合でも、事実問題に関する知的な精神異常とか妄想とかは見られなかった。しかし、もし私たちが、幻覚や妄想をともなう本当の精神病の憂鬱症のことを記した章を開いてみる気になったとしたら、そこにははるかにひどい話が記されていることであろう。――すなわち、そこに見られるのは、絶対的なまったき絶望であって、全宇宙は病者のまわりで凝固して圧倒的な恐怖の塊と化し、初めも終わりもなく彼をとり巻いてしまうのである。悪についての概念とか知的知覚などではなく、血を凍らせ心臓をしびれさせる、ぞっとするような、身に迫る悪の感覚であり、それが出現すると、その他の概念や感覚は一瞬たりとも起こることができないのである。このように救助を必要とする場合に臨んでは、すべて私たちのふだんの上品な楽観主義や知的な、また道徳的慰めが、なんと見当ちがいの縁遠いものに見えることであろう。ここに、助け給え、助け給え、という宗教的問題の真の核心がある。どんな預言者でも、そういう犠牲者たちの耳に真実の響(ひび)きをもつことを語るのでなければ、究極の福音を伝えたと主張することはできないのである。しかし、救いが効果を示しうるためには、その救いは、彼らの苦しみの訴えと同じような強い形で、訪れねばならない。そして、血と奇蹟と超自然的作用のつきまとう、信仰復興運動風の、熱狂的な宗教がけっして姿を消すことがないだろうと考えられる理由は、そこにあるように思われる。ある性質の人々はあまりにもそういう宗教を必要とするのである。



筆者注:

ジェイムズが話す通りである。「絶対的なまったき絶望」、「圧倒的な恐怖の塊」、「血を凍らせ心臓をしびれさせる、ぞっとするような、身に迫る悪の感覚」に直面した人々は、普通は必死になって脱出を試みるのである。脱出が不可能と判断して、「救い」を宗教に求めるひともでてくる。

 ジェイムズは神秘体験Bの体験者であったから、もちろん必死になって脱出を試みた。しかし、その脱出の試みは成功しなかった。苦しみを打ち消すような強い精神的経験(神秘体験A)は来なかったのである。また、別項で述べるが、信仰復興運動にも同調しなかった。信仰復興運動はとどのつまり、自己放棄が交換条件なのだが、ジェイムズのような理性の強い人間には自己放棄はできないのである。

 だから、ジェイムズにとって結局のところ、宗教とは「救い」と同義語になるわけである。

 筆者は別の箇所で、宗教の本質は三つ、すなわち

    1. 哲学
    2. 現世利益(救世主)
    3. 来世利益(極楽往生の保証)

であると、記述したが、ジェイムズの場合は、この『宗教的経験の諸相』を読むかぎり、2.現世利益に限定されているのである。これがジェイムズの宗教論の特徴である。

形 容 さ れ た B (4)

『宗教的経験の諸相』上 P230
憂鬱症患者の心象風景



トルストイの場合には、人生になんらかの意味があるという感じが、
しばらくの間まったく失われたのであった。
……憂鬱症患者の場合にも、
よくこれと同じような変化が起こるが、ただその方向が逆である。つま
り、世界が縁遠く、よそよそしく、不吉に、気味悪く見えるのである。
世界の色は消え、呼吸(いき)は冷たくなる、世界のいからした目のな
かには思索の余地などありはしない。保養所の一患者は、「私はまるで
違った世紀に生きているような気がする」といっている――また別の患
者は、「私はあらゆるものを雲を通して見る、事物が以前とは違って見
える。私自身が変わってしまったのだ」といっている。――また別の患
者はいう、「わたしは見る、私は触れる、しかし事物は私に近づいて来
ない。厚い幕が、あらゆるものの色合いや様子を変えているのだ。」―
―「人間が影のように動き、もの音は遠くの世界から響いてくるよう
だ。」――「わたしにはもうどんな過去もない。人々がとてもよそよそ
しく見える。私は現実の世界を見ることができなくなったような気がす
る。まるで芝居のなかにいるような気がする。人々は役者で、あらゆる
ものが
道具立てのようだ。私にはもはや自分がわからない。私は歩く、
しかし、なぜだろう?あらゆるものが
、私の目の前を浮動するが、なん
の印象も残さない。」――「泣いても、流れるのは空涙である。私の手
はあっても無いような感じだ。私の見る事物はほんとうの事物ではない。
」――こういう言葉が、憂鬱症にかかった人間が自分の変化した状態を
述べようとする時に、自然にその唇にのぼる言葉である。
(1)

(1) 私は、これらの実例をG.Dumas : La Tristesse et la Joie, 1900.
から抜粋した。

筆者注:

ゲーテの『ウエルテルの悩み』の該当部分を参照せよ。

 上述の文章のなかで、「人間が影のように動き、もの音は遠く
の世界から響いてくるようだ。」――「わたしにはもうどんな過
去もない。人々がとてもよそよそしく見える。私は現実の世界を
見ることができなくなったような気がする。まるで芝居のなかに
いるような気がする。人々は役者で、あらゆるものが、私の目の
前を浮動するが、なんの印象も残さない。」――「泣いても、流
れるのは空涙である。私の手はあっても無いような感じだ。私の
見る事物はほんとうの事物ではない。」・・・・という箇所に注
目せよ。精神と身体との遊離状態が生じていることに注目せよ。

腰を引いてはいけない。逃げてはならぬ。ひたすら進め。一見
逆方向の努力のように感じられるかもしれないが、そうではない。
飛び込め。


 正受老人の言葉を思い出そう。

ただ当人の純工功積り、実参力尽き、最後放身捨命の一刹
那に在るのみ。迷へば則ち円頓無作純真の戒体を全うしなが
ら、五濁充満雑業の穢土(えど)を為し、会
()すれば則ち
五濁充満雑業の穢土を全うしながら、円頓無作純真の戒体と
為(な)り、一切処に純工間欠無きを、之を名づけて真正持
戒の仏子と為す。毫釐も繋念せば、之を名づけて波羅夷(は
らい)と為す。只険崖に手を撒し、絶後に再び蘇らんことを
要す。