音    

 考えてみよう。

 『般若心経』(般若波羅蜜多心経)は、次のように始まる。

觀自在菩薩。                     觀自在菩薩(かんじざいぼさつ)
                                           観自在菩薩は、

行深般若波羅蜜多時
       深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみつた)を
                                          行(ぎょう)じし時、
                                      深遠な真実の認識を実践なさったときに、

照見五蘊皆空。
                  五蘊皆空(ごうんかいくう)なりと照見(しょうけん)して、
                                           われわれの存在を構成している五つの要素は
                                           みな空なりと見きわめられ、


度一切苦厄。
                     一切の苦厄(くやく)を度したまえり。
                                           一切のわれわれの苦しみをお救いになられた。


     (本文は、大本山永平寺発行『修證義』、
      書き下し文は、『仏典を読む3 大乗の教え(上)』中村元 岩波書店 2001

 すなわち、観音菩薩が主役である。観自在
菩薩(玄奘三蔵は「観自在」と翻訳した)が
行じた結果、五蘊すなわち
色・受・想・行・
識(という生命体を構成している物質と諸感
覚)は、ことごとく「空」であるとして、

「空」の哲学を語っているのである。「ほと
け」が我々に話すのではなく、観音菩薩が話
してくださる、のである。


 すなわち、『般若心経』では、観音菩薩が
(「仏」に成り代わって)哲学者を演じてい
るのである。

写真:

     法隆寺百済観音
    出典

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/
cpaint/nara/horyujikudara1.jpg

 『法華経』の場合はどうか。

 『法華経』は大乗仏教の基本経典である。さとりの境地
にも「声聞」(釈尊の生活態度を遵守する)、「縁覚」
(独学で苦行に頼る)、「菩薩」(
自利利他をめざし菩薩
の実践をとなえる)
と三段階があるが、それらは、もとも
と一つであるという「一乗思想」(一つの乗り物)を説い
ている。


 一般には『妙法蓮華経』のうち、観世音菩薩普門品第二
十五、いわゆる『観音経』を唱える。


 『観音経』は次の通り伝える。

 無尽意菩薩の問いかけに対し、「ほとけ」が説くには、

        @七難               観音の名を称えることで免れ
                          ることができる。

     A三毒               観音を念じることによりこれ
                          らの煩悩から開放される。

     B二求               観音を礼拝供養することで子
                          供(男、女)を授かる。

     C三十三身十九説法   観音は三十三身に姿を変えて、
                          衆生のために説法する。

                          説法の数は十九回。

 つまり、観音菩薩は、信仰と引き換えに現世利益を与えてくれる救世主である。

 『浄土三部経』にあっては、観音菩薩は脇役なのだが、人間の臨終にあっ
て決定的な役割を果たす。

 法蔵菩薩が阿弥陀如来になられるときに、四十八願を懸けられたのだが、
その第十八願として、

   「たとい、われ仏となるをえんとき、十万の衆生、至心(ししん)に
   信楽(しんぎょう)して、わが国に生れんと欲して乃至十念(じゅう
   ねん)せん。もし、生れずんば、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ、
   五逆(ごぎゃく)(の罪を犯すもの)と正法(しょうぼう)を誹謗
   (ひぼう)するものを除かん。」


           (中村元ほか『浄土三部経(上)』ワイド版岩波文庫、
                        岩波書店 
1991 P157

と、衆生にとっての極楽への道を切り開かれた。

 実際には、次のような具合にお迎えがくるのである。

   「阿弥陀如来、観世音、大勢至、無数の化仏(けぶつ)、百千の比丘、
   声聞の大衆、無数の諸天、(ならびに)七宝の宮殿とともに(現前)
   す。(すなわち)観世音菩薩、金剛の台(うてな)を執り、大勢至菩
   薩とともに、行者の前にいたる。阿弥陀仏、大光明を放ち、行者の身
   を照らし、もろもろの菩薩とともに、手を授けて迎接(こうしょう)
   したもう。観世音・大勢至、無数の菩薩とともに、行者を讃歎し、そ
   の心を勧進す。行者、見おわりて、歓喜踊躍(かんぎゆやく)し、み
   ずからその身を見れば、金剛の台(うてな)に乗れり。仏の後(しり
   え)に随従して、弾指(だんし)の頃(あいだ)ほどに、かの国に往
   生(おうじょう)す。」

        (中村元ほか『浄土三部経(下)』ワイド版岩波文庫、岩波書店 1991 P69

写真左上:

観音菩薩立像(九面観音)国宝 
中国 唐時代
白檀造
像高 37.5cm
大宝蔵殿
日本美術全集 第二巻
『飛鳥・白鳳の美術』
法隆寺と斑鳩の寺

鈴木嘉吉、学習研究社 1978

白檀と考えられるきわめて堅緻な
壇材から、頭体部はもちろん装身
具、垂髪、天衣、持物、足下の蓮
実までをふくめて一材から彫成す
る。これらすべてが細部にいたる
まで精緻をきわめた彫刀で鏤刻
(ろうこく)され
、世にいう檀像
彫刻の典型的な作技を示している。

 観音菩薩は、金蓮華を手にしてお迎えにきて、そして(私
が)この金蓮華に乗ったとおもったら、瞬時にして極楽に到
達しているのである。


 つまり、観音菩薩は、極楽に行きたいと願う人にとっての
「運び屋」となり、信仰と引き換えに来世の利益を与えてく
れるのである。

出典:
エルミタージュのweb siteから
The Hermitage
Buddha-Amitabha Meeting the Soul of a Righteous Man
on its
Way to the Pure Land
Khara-Khoto
12th century
Cotton, mineral paint 142.5 x 94 cm

The Buddha-Amitabha ruler of the Pure Land of the West
is shown with two Bodhisattvas, carrying a lotus throne on
which he will install the soul of a dead righteous man, who
can thus be happily reincarnated. The deceased here is
represented as a naked boy, standing before them on a cloud,
and the figure of a seated dead monk is depicted beneath a
tree in the lower left corner. The thangka is well-preserved
and is notable for its striking bright colouring.


http://www.hermitagemuseum.org/html_En/03/hm3_5_8f.html

 整理をしておこう。

 観音菩薩は、その性格によって三つの人格を有している。

 
   
『般若心経』           「空」の哲学を講ずる哲学者

      『法華経』        七難を免れさせ、三毒の煩悩を消
   (『観音経』)  二求を与えるという現世利益を授け
                       る救世主。


    『浄土三部経』      極楽浄土へ引率する運び屋。


 これが、畢竟、仏教のコアである。つまり、観音菩薩が仏教
全体を三つの性格をもって体現する。




 いや、『華厳経』があるではないか、とおっしゃる方もおら
れるだろう。だが、『華厳経』は、基本的には釈迦のお悟りに
なられたとき(華厳時)より数えて三七、二十一日間のお心の
有様を描いた、状況描写本であって、観音についての
補陀落に
ついての記述もあることはあるが、人間との直接的な関わりに
関する記述ではない。人間とのなんらかの取引が発生するお経
としては、だから、上述三経が主体である。