観音菩薩の三つの性格

観音菩薩は、その性格によって三つの人格を有して
いる。



  『般若心経』      「空」の哲学を講ずる哲学者(@)

  『法華経』(『観音経』)
                  七難を免れさせ、三毒の煩悩を
                 
し、二求を与えるという現世
                  利益を授ける救世主(
A)。

図版:
  天寿国繍帳 国宝 
  七世紀前半
  羅・綾・平絹製 刺繍
   88.8 x 82.7cm
  奈良県 斑鳩町 中宮寺
   日本美術全集 第二巻 
  『飛鳥・白鳳の美術』法隆寺と斑鳩の寺

  鈴木嘉吉、学習研究社 1978

   推古天皇三十年(622)二月二十二日、聖徳
  太子が薨じたあと、王妃橘大女郎(たち
  ばなのおおいらつめ)が天寿国における
  太子往生のさまを図像に描かせた。

 さて、この三人の観音菩薩の性格を掘り下げてみよ
う。

 観音菩薩は、上記の順序で@ABと名付けることが
できる。観音菩薩
@と、観音菩薩Aと、観音菩薩B
三人である。

   『浄土三部経』  極楽浄土へ引率する運び屋(B)。

 これら三人はその性格上等質ではない。哲学者と、救世主と、運び屋
という職業上の差異もあるのだが、よく考えてみると、存在の形態その
ものも異なっている。


 @は哲学領域で活躍するのであるから、彼自身で完結的である。

 だが、ABは信仰の問題がからんでくる。信仰すればご利益(りや
く)がある、信仰しなければご利益はない。つまり、信仰する人にとっ
てだけ存在する価値のある観音菩薩なのである。


 たとえば、新興宗教の教祖は、この教祖を信じる人にとってはじめて
存在するのであり、信じない人にとっては存在しない。

 このように、信じる、信じない、の信仰問題が入るから、これら(A
B)は哲学者ではなく、宗教者のカテゴリーに属している。

 観音菩薩@は哲学者であるから、彼自身で完結
した論理をもち、他者によって動かされる存在で
はないし、もちろん内的要因によって簡単に変質
する性格も持ち合わせていない。


 それにひきかえ、観音菩薩Aと観音菩薩Bは、
それらの存在が受取る側からの信心に依存してい
るのである。極言すれば、
ABは、必要のない
場合には、存在しなくてもかまわない存在である、
と言い切ることができよう。


 こういう意味合いで、観音菩薩@はその存在が
鋭角的であり、肉体上もスリムである。これに引
き換え、観音菩薩
Aと観音菩薩Bは、その存在に
隙があり、通俗的な「
金(かね)」の入り込む余
地があって、いささか胡散臭い。どちらかという
と、新興宗教の持つ生臭さがある。この「存在の
隙」を補うため、「折伏」という強引な勧誘行為
が歴史上で散見されてきた。つまり、ファットな
のである。中年男の多少脂ぎって太った体型なの
である。

図版:
      
蜀江錦(しょっこうきん)(赤地格子蓮華文錦)重文
        中国 七世紀後半
         絹製
         格子一こま 6.8 x 4.6cm
         大宝蔵殿
         日本美術全集 第二巻 
     『飛鳥・白鳳の美術』法隆寺と斑鳩の寺

         鈴木嘉吉、学習研究社 1978

         蜀江錦は中国で産錦の地として名高い揚子江上流にある
        蜀の地から産する錦をとくに
いう。

         法隆寺には三種類の蜀江錦があるが、いずれも赤地錦で、
        その織りは経糸(たていと)に色糸をそろえ地も文様も
        経糸で織り出した経錦といわれるものである。

         聖徳太子の妃である膳妃(かしわでのきさき)の帶と伝え
        られている。

 このように筋道立てて考えると、前章で引用した中村元
の「建国者のつくる普遍的国家の持つ特質」(下に再録)
は、改変が施されなければならない。


   1.       その文化圏全体を支配統治する一つの強大な国王
    (または統治者)が出現し、かれの属する王朝の基礎
     が確立する。

2.       精神的な面においては、諸部族対立の時代には
見られない新しい指導理念が必要とされる。

3.       その指導理念を、あるいはその指導理念の精神
的な基調を、なんらかの普遍的な世界宗教が提供す
る。

4.       その指導理念は、確定された文章表現(たとえ
ば詔勅)のかたちで、公(おおやけ)に一般の人び
とに向かって表現される。

 2.で述べられている「指導理念」は、それが実現
するかどうかわからない曖昧な存在、あるいは、条
件つきの存在では、「理念」になりえない。民族を
指導する理念であるから、信じるひとだけに通用す
るという偏頗な理念では、長期間の継続が不可能と
なる。観音菩薩
ABでは間尺にあわない。

 だから、2.の趣旨は正しいのだが、3.の「なんら
かの普遍的な世界宗教」と記してあるのを変更しな
ければならない。「なんらかの普遍的な世界的規模
の哲学」と改変しなければならない。



 明治時代以降の日本の知識人は、ドイツ哲学を先
に学んでしまうから、仏教が「仏教哲学」をもって
おり、これが西洋哲学よりもはるかに優れた哲学で
あることが、どうしても理解できない。

 ドイツ系ロシア人のケーベル博士が(明治26年
(1893)から大正3年(1914)まで)東京帝国大学で講
義したカントとヘーゲルとショーペンハウエルが、
「善」という価値を構築し、この価値が絶対である
から、他にこれに優先する哲学は存在しない、と考
えてしまうのである。


  注: 勝部真長『青春の和辻哲郎』
           中公新書854 中央公論社 1987 P147


      しかし一番熱心に聴いたのはケーベル先生
      の哲学講義である。魚住にすすめられていた
      が、教室の一番前列の席に坐って、その英語
      の講義をノートにとり、内容もあらかじめ予
      習してきて聞くから、よく解って嬉しかった
      という。「廊下をゆっくりと静かに歩いて来
      られる先生のにこやかな、清らかな顔は、実
      際神々しいものに思えた。」

 ロシア人のケーベル博士は、ハイデルベルク大学で哲学博士号を取得したが、同性愛傾向があったと信じられており、とても「神々しい」人格ではなかったようだ。過剰な西洋哲学崇拝雰囲気は、同性愛をも「神々しく」してしまう。


図版:
   
法隆寺金堂壁画6号壁釈迦浄土図
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/HORYUJI/HEKIGA/IMG006.JPG

   「ほとけ」は「善」を主張しない。
     「ほとけ」は「真善美」も主張しない。
     「ほとけ」は西洋の価値体系(ドイツ哲学)を否定する