『古      礼』

             数多き観音像、観音崇拝―写実―百済観音

 推古天平室に佇立(ちょりつ)したわたくしは、今さら、観
音像の多いのに驚いた。


 聖林寺観音の左右には大安寺(だいあんじ)の不空羂索観音
や楊柳観音(ようりゅうかんのん)が立っている。それと背中
合わせにわが百済観音が、縹渺(ひょうびょう)たる雰囲気を
漂わしてたたずむ。これは虚空蔵(こくうぞう)と呼ぶのが正
しいのかも知れぬが、伝に従ってわれわれは観音として感ずる。
その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に
澡瓶を把り、右の(ひじ)を曲げ、掌(たなごころ)を上に
向けて開いている。これも観音の範疇(はんちゅう)には入り
そうである。さらに百済観音の左には、薬師寺(?)の、破損
はひどいが稀有(けう)に美しい木彫の観音があって、ヴィナ
スの艶美にも似た印象をわれわれに与える。その後方には法隆
寺の小さい観音が立っている。


                    (和辻哲郎『古寺巡礼』ワイド版岩波文庫 1991P65

 大正7(1918)522日朝、29歳の青年学者
が、原善一郎・寿枝子夫妻とともに、奈良ホテ
ルから歩き、正面玄関から奈良帝国博物館に入
ったのだが、彼は翌年この旅にもとづいて『古
寺巡礼』という本を書いた。この当時の奈良の
帝国博物館は、奈良県の古社寺から寄託された
仏像であふれていた。和辻哲郎が驚かされたこ
とは、観音菩薩像の多いことであった。その部
分をここに引用することとしよう。

写真:奈良国立博物館
      今も変わらぬ佇まい。
http://fukup.toylabo.com/photograph/photo1118/photo/21.jpg

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写真:聖林寺の場所と
   聖林寺十一面観音

   出典は
http://www1.kcn.ne.jp/~shorinji/
shorinji/history/history4.htm


天平仏の代表である聖林寺の
十一面観音なのだが、筆者は
まだ訪れたことがない。
左の地図を参考に近々訪問の
上、拝観したい。


国宝
木芯乾漆造
天平時代

 十大弟子、天竜八部衆、二組の四天王、帝釈・梵天・維
摩(ゆいま)、などを除いて、目ぼしいものはみな観音で
ある。これは観音像がわりに動かしやすいために、自然に
集まってきたというわけかも知れない。しかし考えてみる
と、三月堂の不空羂索観音、聖林寺の十一面観音、薬師寺
東院堂の聖観音、中宮寺(ちゅうぐうじ)観音、夢殿(ゆ
めどの)観音など、推古天平の最も偉大な作品は、同じく
みな観音である。他に薬師如来(やくしにょらい)の傑作
もあるが、観音の隆盛にはかなわない。だから推古天平室
に観音の多いことは、直ちに推古天平時代の観音崇拝の勢
力を暗示するとみてよいであろう。


              (和辻哲郎『古寺巡礼』ワイド版岩波文庫 1991P66

 このような話をすると、各位からきついお叱り
を頂戴することになるだろうが、私は、和辻哲郎
の直感は正しい、と思っている。いや、彼の直感
を一歩すすめて、仏教は観音菩薩によって体現されている、とそう考えている。


 南方の国々で信仰されている小乗仏教ならいざ
知らず、こと大乗仏教にかんする限り、仏教の骨格は、

        『般若心経』
               『法華経』
            『浄土三部経』

によって作りあげられており、そして、この構造
は、現在も聖徳太子の時代とまったく変わりがな
い。そしてそのいずれのお経も、観音菩薩が人間
との接点を受け持っている。

 キリスト教で、神が人間に接する必要がでてき
た場合、神が直接に出て来られるのではなく、大
天使が(神の代理として)現われる。受胎告知を
行う場合は、聖母マリアの前に現われるのは神自
身ではなく、大天使ガブリエルであったことを思
い起こそう。

写真: シモーネ・マルティーニ
     『受胎告知』
      
ウフツィ美術館

   神様が来られるのではない。大天使ガブ
      
リエルが代理でやって来るのである。

http://j-miki.hp.infoseek.co.jp/Bible/
AMariaStory/14Annunciation/mart.jpg

 また、ヒラー山の洞窟で瞑想するムハンマドの
前に立ち現われたのも、神ではなく、大天使ガブ
リエルだった。

 仏教でも同じように、こと人間との接点にかんしては、「ほとけ」が直接にお出ましになるのではなく、観音菩薩が「ほとけ」の代理として出現するのである。

 つまり、私たち仏教徒は、観音菩薩というドアを通して「ほとけ」を拝む構造になっている。