例によって、ムハンマドの人物の略歴を書いておこう。
詳しくは、次をもあわせて参照すること。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%
E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%
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西暦570年頃アラビアのメッカで名門クライシュ族の一員として生れた。
 生れて父を知らず、母親も6歳のときに亡くなった。
 年老いた祖父に引き取られたのだが、彼も数年でなくなり、叔父のアブー・ターリブに引き取られた。
 その後、メッカで交易商社を経営していたハディージャという名前の未亡人に拾われ、25歳のマホメットは40歳前後のハディージャと結婚することになる。「赤貧」から「大金持ち」に成り上がった。
 こうして商人として幸福な15年を送っていたとき、彼の心が突然変化する。
 かれは、日常生活を捨てて、孤独と瞑想に浸りたくなった。そこで彼は、メッカ近郊のヒラー山の洞窟に閉じこもり、禁欲生活に入った。

「マルティン・ルター」のなかで、筆者はマルティン・ルターが歴史上は
じめての
B only typeであるかのような記述をしたのだが、範囲を西洋世界に
限定しなければ、実は
B onlyはほかにもいた。しかも、マルティン・ルター
よりもはるかに時期が早かった。

 それはイスラム教の開祖であるムハンマドである。ムハンマドはアラビア
語の人名で正式名はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブ
ドゥルムッタリブ
、預言者を意味するマホメットと呼ばれることもある。

 このムハンマドについては、私たちは、井筒俊彦氏の著述に全面的に頼ら
なければならない。彼が、ムハンマドのことを日本人にとても分かりやすく
解説してくれた最初の学者なのである。

 この項は次の三冊を基礎とした。

              井筒俊彦『コーランを読む』岩波セミナーブックス1 岩波書店1983
              井筒俊彦『コーラン』ワイド版岩波文庫241 岩波書店 2004
              井筒俊彦『イスラーム文化』岩波書店 1981

この三冊のうちのどの本がベストかと問われたら、筆者は躊躇せずに、井筒
俊彦『コーランを読む』を挙げる。この本を読むことで、イスラムの本質とい
うか、根源が理解できるようになる。

ムハンマド

画像:
holy mosque
MeccaKa’Aba神殿

ハッジの最中らしい。多数の信者が蝟集している。
時刻は朝。撮影者は北方を眺めている。
画面中央の遠方に突出するのがヒラー山である。

http://www.greatestcities.com/users/cbray5003/Middle_East/Saudi_Arabia/

筆者は先に書き上げた「マルティン・ルター」の次の記述を訂正しなければならなくなった。

ところで15世紀の終わりころ、西洋世界にきわめて革命的な思想を創り出した人間が現われた。プラトン以降の西洋世界にあって、過去の誰にも似ていないタイプの人物であったから、彼の出現はその当時の西洋世界をあっといわせた。
   それがマルティン・ルターである。

 

ある年のラマザン月のある夜、例によってヒラー山の洞穴にこもっている彼に突如として超自然的なものの圧力がのしかかって来た。後日彼はそれを天使ガブリエルの降臨と解した。天使は息が窒(つま)っていまにも死ぬかと思うほど彼の喉元(のどもと)をひっんで、いきなり「誦め」と命じた。「私は読み書きもできぬ無学のもの。私に何が誦めましょう」と言うと、天使はそれにこたえて次の一節を唱えたという。それが現行『コーラン』の第96章、「凝血」である。
    (井筒俊彦『コーラン』(下)ワイド版岩波文庫                     241 岩波書店 2004 p326

画像:

最近のcizma夫人の撮影によるヒラー山の映像をご紹介しておこう。
 200423日、ミナからメッカへ帰る途中で撮影されたらしい。
 メッカ近辺は非モスレムによる入場が禁止されている。また、サウジアラビアは写真撮影がとてもうるさいところなので、この写真は貴重である。
 写真の出典は、
http://www3.ocn.ne.jp/~tosh/sheba.html

 上の記述で「ある年」とあるが、25歳で結婚して、それから15年たったときなのであるから、このときムハンマドはほぼ40歳であることがわかる。このとき(西暦611年)、日本では聖徳太子が37歳であり、摂政に就かれてから18年目だった。聖徳太子とムハンマドでは宗教経験はずいぶんと違うが、生活した年代だけは同じころだった、と覚えておくのがよいかもしれない。
 メッカ近郊は昔も今も水の少ない土漠であり、文化的な遺産といっても限度があり、アラビアの部族民は偶像崇拝をして先祖を祭っていた。文化的遺産としては口伝による旧約聖書の精神的遺産しかなかった、と推定される。
 もちろんヒラー山の周囲には誰もいなかったにちがいない。

 その洞窟に独りでこもって瞑想にふけり、上述のような精神的経験に遭遇したのだから、ムハンマドの精神的な基礎は、他人による教唆とか、暗示とかをまったく受けない、彼個人の内的経験であった、と判定せざるをえない。彼には、先生というか、導師というか、イマジネーションそのものを教えるひとは周囲にひとりもいなかった、と推定して間違いはなさそうだ。このような背景のもとで、他人の援護は一切なく、絶対性を持つ精神的な価値観の創立に成功した人間の数は世界ではあまり多くないから、彼の業績はやはり、「驚異的」と看做されるべきかと思う。

このような考察から、ムハンマドもマルティン・ルターも共に、みずからの心の彫心とも表現すべき、孤独な探検行為を行ったことが共通しているように思われる。また、Bの本体の認識に手間がかかることから、いずれも到達年齢が遅いことに注目したい。ルターの場合は31歳か、32歳だった。ムハンマドは40歳か、41歳だった。