「 凝 血 」
井筒俊彦『コーランを読む』(下)岩波書店1983 P293からムハンマドの受けた最初の啓示である「凝血」を引用しておこう。
九六 凝血 ――メッカ啓示、全一九節――
慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において……
誦め、「創造主(つくりぬし)なる主(しゅ)の御名において。
いとも小さい凝血から人間をば創りなし給う。」
誦め、「汝の主(しゅ)はこよなく有難いお方。
筆もつすべを教え給う。
人間に未知なることを教え給う」と。
はてさて人間は不遜なもの、
己れひとりで他(ひと)は要らぬと思いこむ。
旅路の果ては主(しゅ)のみもと、とは知らないか。
これ、どう思う、(神の)僕(しもべ)(マホメット自身を指す)が祈っていると、
それを邪魔する者がある(これはアブー・ジャフルという人のことだと言われている)。
これ、どう思う、あれで正しい道(回教の信仰)を踏んでおるか、
懼神をひとに勧めておるか。
これ、どう思う、それとも嘘だと言うて背を向けたか(勿論、この後の方である)。
アッラーが見ていらっしゃるのを知らないか。
いや、いや、もしさっさと止めなければ、前髪ぐっと捉まえるぞ。
あの嘘つきで罪ふかい額の髪を捉まえるぞ、
いくらでも己の手下を喚ぶがよい。
こちらは地獄掛り(地獄で罪人を責めさいなむ掛りの天使たち)を喚んでやる。
いけない、いけない、あんな男の言うこと聞くな。さ、額ずいて、近う寄れ
(祈れということ。祈るのは神に近寄ることである)。
ムハンマドがその声を聞いたという大天使ガブリエルは、神に仕える最高位の天使であって、ここぞという肝心なときにお出ましになる。
新約聖書では、聖霊の降誕、つまり「受胎告知」の場面で描かれる天使がガブリエルである。
大天使と普通の天使とのあいだには、これといった肉体上の差異はないようだ。
リヨン博物館の素晴しい名品のなかに彫刻「受胎告知」がある。
向かって左が大天使ガブリエルである。
重量に耐えられなくなったので、翼は外されている。
この最初の啓示「凝血」をお読みいただいても、井筒俊彦氏の解説をお読みいた
だいても、遠く離れた東洋に住んでいる人たち(私をふくめて)には、この啓示の
持つインパクトがうまく伝わらない。
私たち日本人には、旧約聖書に描かれる「恐るべき神」の概念が欠落しているか
らだ。
神は、戒律を無視したクズ人間に目をつけて、ある日突然に怒り狂うのである。
小さい人間を蹴散らし、生存できない空間に閉じ込め、地獄におとし、神の存在の
偉大さをこれ見よがしに見せ付ける。神の怒りは神との契約を破った個人に限定さ
れるものではなく、子孫代々に及ぶ。
このような「恐るべき怖い神」が存在すること自体が日本人には理解できない。
縋っても、泣いても、いっさいの容赦に応じない強情な神が思想の中心に存在する
ことが理解できない。
ムハンマドの場合、人間がどのような戒律を犯していたかというと、その当時ア
ラビアの人たちは、旧約聖書で禁じられている偶像崇拝をおこなっていた。メッカ
に昔から存在し、人類の始祖アダムが造築したというメッカの聖石を神殿に仕立て
あげ、守護神としての偶像を祀り崇めていたのである。
神は最初の啓示で怒り出す。
貴様たちは戒律をおかした。
こうなった以上、貴様たちが否と言っても、
神との契約内容を思い出させてやる。
地獄へ落としてやる。
といって怒り狂うのである。
旧約聖書に描かれる「恐るべき神」は、偶像や絵画が禁止されていることもあり、私たちはそのパターンを自分の目で見ることができない。時代がさがって、15世紀にラファエロがヴァチカンのラファエロの廊下と称されるところに旧約聖書物語を描いたのであるが、天地創造その他の場面で「神」を拝観することができる。そのなかから、ちょっと痛んでいるが、「神はアブラハムにあらわれる」を見物していただこう。なお、アブラハムはアラブ民族の祖先であるとされている。
画像:
ラファエロの廊下 No.14
『ヴァティカンにおけるミケランジェロ
とラファエロ』
ヴァティカン博物館特別版
Monumenti, Musei E Gallerie
Pontificie
1978