『宗教的経験の諸相』上 P248

密林の虎



(1) 例 「夜の十一時頃であった。・・・・しかし、私は人々といっしょ
にぶらぶら歩き続けていた。・・・・突然、道の左側で、叢のなかでがさ
がさという物音が聞こえた。私たちはみなびっくりした。と、その瞬間、
一匹の虎が、密林から飛び出してきて、先頭にいた仲間の一人に襲いかか
ると、眼にもとまらぬ早さで彼をさらっていった。虎の突撃、あわれな犠
牲者の骨が虎の口で砕ける音、彼の断末魔の「あ、あーっ」という叫び声、
私たちが思わず反響のように繰り返した同じ叫び、すべては三秒間で過ぎ
てしまった。それから、どんなことが起こったか、私は知らなかった。正
気にもどったとき、私は、自分と仲間の者たちが、森の王者たる私たちの
敵にむさぼり食われるのを待ってでもいるかのような格好で、地上に倒れ
ているのに気がついた。私は、あの恐ろしい瞬間の恐怖を筆にのせること
ができない。私たちの四肢は硬直し、口をきく力もなくなり、心臓は烈し
く鼓動して、誰の口からも、ただ、「あ、あ!」という囁きが聞かれるだ
けだった。こういう状態で、私たちは四つん這いで少しばかりあとずさり
し、それから三十分間ほど、アラビア馬のような速力で必死に走りつづけ
て、運よくある小さな村にたどりついた。・・・・その後で、私たちはみ
んな悪寒(おかん)を伴う発熱におそわれ、そして朝までそんな悲惨な状
態がつづいたのであった。」
――
Autobiography of Lutfullah, a Mohammedan Gentleman, Leipzig, 1857p. 112.

『宗教的経験の諸相』上 P247

悪の事実こそ実在の真の部分



 ただ善の光のなかにだけ生きようとする方法は、・・・・憂鬱があらわ
れるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。そして、たとえ私たち
自身が憂鬱をまったく免れているとしても、健全な心が哲学的教説として
不適切であることは疑いない。なぜなら、健全な心が認めることを断乎と
して拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪
の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い
真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれな
いのである。

 正常な人生行路にも、病的な憂鬱を満たしている瞬間と同じように恐ろ
しい瞬間、根本悪が支配権を握って、がっちり有利な情勢を作ってしまう
ような瞬間があるものである。精神病者の見る恐怖の幻影はすべて日常の
事実を材料にして作られている。私たちの文明は流血の修羅場の上に築か
れており、個人個人の生存は孤独な断末魔の苦悶のなかへ消えてゆく。も
しこれに諸君が抗議したいなら、諸君は、諸君自身がそこへ行きつかれる
まで、待たれるがいい! 太古の時代に肉食性の爬行動物が生きていたのを信ずることは、私たちの想像力にとって困難である。――そういう爬虫
類はとかくただ博物館の標本でしかないように思われるからである。しか
し、博物館に陳列してあるそれら爬虫類の頭蓋骨(ずがいこつ)のどの一
つを採ってみても、その昔、永い年月にわたって毎日毎日、なにか運のつ
きた餌食が絶望的にもがき苦しむ身体(からだ)にしっかり突き刺さった
ことのない歯は一つもないのである。爬虫類の餌食となった動物たちが恐
れたのとまったく同じ形式の恐怖が、その規模は小さいながらも、今日、
私たちのまわりの世界を満たしている。私たちの身近な、この炉の上で、
この庭のなかで、悪魔のような猫が息もたえだえの鼠をもてあそび、激し
く羽ばたく鳥をその口に咬えている。鰐(わに)もがらがら蛇も錦蛇も、
現にいま、私たちと同じように真実に生命の器なのである。いまわしい彼
らといえども、その長い身体をひきずっている一日一日の一刻一刻を満た
して生存しているのである。そして、彼らやその他の獣たちが生きた餌食
を?むたびごとに、その事態に反応して、興奮した憂鬱症患者の感じるあ
の死のような恐怖と同じような、文字どおり当然の反応が示されるのであ
る。
(1)


筆者注:

 あなたたちのような楽観主義者が理解できないというならば、そ
のような瞬間があなたに襲いかかるまで待たれたらどうであろうか。
生命が奪われる慄然たる恐怖は、人間や動物すなわち生命体にとっ
て、それが他者によって殺される場合であろうが、あるいは自然死
であろうが、私たちの逃れ得ない事態である。それは生存に伴う最
終必須伴走条件なのである。つまり、言葉を変えれば、生物は、こ
の恐怖のために、この恐怖を目的として生きているのである、とジ
ェイムズは説く。その恐怖が実感できないというのであれば、次の
文章を読んでみるとよい。あなたは真実、腰が抜けよう。

形 容 さ れ た B (5)