『宗教的経験の諸相』上 P224

積極的で能動的な不安


 喜びを感じることができない、という意味での憂鬱については、これく
らいの説明で止めておこう。それよりもはるかに悪質の形態の憂鬱は、積
極的で能動的な不安であって、それは健全な生活をしている者にはまった
く知られてない一種の精神的神経痛である。そういう不安はいろいろな性
格を帯びることができ、あるときは、いやでたまらないという性質をより
多くもち、あるときは、いらいらしたり、むかっ腹を立てたりするという
性質をもち、あるいはまた、自分を疑ったり、自分に絶望したりするよう
な性質をもち、あるいは、猜疑、不安、戦慄、恐怖というような性質をも
つこともある。そういう病人は、反抗的になったり、あるいは、従順にな
ったりする。自分を責めることもあれば、外部の力を責めることもある。
また、或る者は、なぜ自分がそのように悩まねばならぬのか、理論(わけ)
がわからぬために苦しめられ、また或る者は、そういう苦しみをもたない
かもしれない。たいていの症例がこれらの性質の混合であって、私たちは、
この分類法をあまり重要視しすぎてはいけない。のみならず、それら症例
のなかでも、宗教的な経験の領域となんらかの関係のあるものは、比較的
わずかな部分にすぎないのである。・・・・(以下、フランスの養育院の
患者の手紙)


筆者注:

憂鬱病のきっかけはまずなによりも「自分は死にたい」という意
識から出発する。

なぜこのような意識とか願望とかがでてくるのか本人には理由が
わからない。そしてこの願望がいったん生じたら、優しい世界は突
然に消える。

  ゲーテは『若きウェルテルの悩み』のなかで、原因をロッテへの
失恋であると設定した。しかし、ロッテは瞬く間に姿を消す。実は、
ロッテはきっかけにすぎず、憂鬱病と自殺願望は、ロッテとは直接
の関係はなく、ウェルテルにとって耐えがたい苦痛をもたらす、正
体不明の悪魔であった。

この積極的、能動的不安を分析するかぎり、解決はただ一つ「自
殺」しか回答がないように思われるのである。ゲーテは従って、ウ
ェルテルにアルベルトから借りたピストルを持たせ、右目の上に銃
弾を発射させた。

 すでになんども説明しているように、この状態(憂鬱状態)はB
経験への前段階なのだ。

  この苦痛の状態にありながら、なんらの行動もとらず、堪えつづ
けよ。

 マイナスのエネルギーを溜められるだけ溜めよ。

あなたはB経験に刻々と近づいて行く。そこは広さはあまりないが、
またあまり長時間ではないが、あなたが納得させられる場所だ。強
烈な恐怖感を伴うが、現出する励起状態のイメージを観察せよ。あ
なたは得心させられるはずである。存在の理由はなんともわからな
いが、心の本質は理解することができる。
Aの場合と異なり、一回
で理解することのできる人もいるが、数回経験しなければ、理解で
きない人もいる。

 別段、死にもしなければ、健康状態にもなんらの被害も生じない。

 それは、ちょうどA体験と同じだ。その体験を受けたあと、心に
歪みが生じることもなければ、心の動作環境が変形することもない。
新興宗教が強制する心理的な操作(
psychological manipulation
とは違う。

『宗教的経験の諸相』上 P214

血も凍りつく寒さ



現在という時間の持つ輝きは、つねに、それにともなうもろもろの可能
性という背景から出てくる。私たちの日常の経験を永遠の道徳的秩序のな
かに包み込んでみるがいい、私たちの苦悩に不滅の意義を認めてみるがい
い、天をして地に微笑(ほほえ)みかけさせ、神々を地上に訪れさせてみ
るがいい、信仰と希望とを、人間の息づく大気たらしめてみるがいい――
そうすれば、人間の一日一日は楽しく過ぎていくだろう。日々は期待に躍
動し、未来の価値に血を湧かすことであろう。それとは逆に、血も凍りつ
くような寒さと、暗さと、あらゆる永遠の意味の欠けた境涯――純然たる
自然主義や現代の通俗科学的進化論にとっては、それが究極の物質世界な
のである――を自己のまわりに張り巡らせてみるがいい、そうすれば、感
動のわななきはたちまちやみ、むしろ不安の身ぶるいに変わるだろう。


筆者注:

未来に価値と意義を定め、信仰と希望をもちさえすれば、未来に
たいする明るい期待が生まれてこようというものだが、私にとって
の経験した事実は、血も凍りつく寒さと暗さと底無しの深淵であっ
た。このような
B経験をいったんもったが最後、私たちの心からは、
感動が消え、不安の身震いしか残らない。

形 容 さ れ た B (3)

『宗教的経験の諸相』上 P219

どん底の不幸


 二度生まれの人間が報告しているような恍惚たる幸福にいたるもっと
も確実な道は、歴史的な事実が示しているように、私たちがこれまで考
察してきたいずれよりもいっそう徹底した厭世主義を通過して辿りつか
れたものであった。自然の善からどれほど輝きと魅力とが剥ぎ取られう
るものかということは、私たちがすでに考察したところである。しかし、
自然の善がまったく忘れ去られ、自然にも善いものが存在するという感
情がすっかり心の領域から消え失せてしまうほどに大きなどん底の不幸
というものがあるのである。厭世主義がこのように極端にまで達するに
は、人生を観察したり死を反省したりするより以上のなにかが必要であ
る。個人みずからが病的な憂鬱の餌食とならねばならない。健全な心の
情熱家が悪の存在そのものを無視するように、憂鬱性の人間はいかなる
善であろうと、心ならずも、その存在をことごとく無視してしまわずに
いられない。彼にとって、善はもはや少しも実在性をもっていないので
ある。


筆者注:

 この文章は通常の人には理解不可能であろう。
 イラク戦争に出兵させられたアメリカ兵の約25%が外傷性精神
障害をもつにいたるというが、
B体験に痛みつけられると、
外界
に理由を求めることのできない
内傷性精神障害にかかってしまう。
  上述のように憂鬱症患者が訴えても、普通の医者はこれを理解
しない。理解できないからだ。

  患者の主張する「私は不幸のどん底にいる」という根拠は、医
者が同じ「どん底」に堕ちた経験がないかぎり、理解の基盤を得
られない。「医者もまた、病的な憂鬱の餌食とならねばならない」。

  しかし、ジェイムズのB経験は、(医者が)望んでこれを経験
しようにも、経験できるとは限らない。それは「神秘体験」だか
らだ。神秘体験というものは、一般人には、それを自ら体験しな
いかぎり、雰囲気は推定できるが、完全な理解は不可能だ。まし
てやマイナス領域の神秘体験に到達した精神科医など普通にはい
ない。


  でもおかしいとは思いませんか? 中身が喜悦の心に包まれる
A経験のときは、医者はなにも言わずに沈黙し、中身が恐怖で充
満する
B経験のときは、その同じ医者がしゃしゃり出て「これは
神経症だ、治療しなければならない」と発言するのです。