『宗教的経験の諸相』上 P213

髑髏が歯をむき出して



問題はまったく、人間の魂がどの程度まで不調和に対して敏感にな
れるか、にかかっている。「わたしの悩みは、普通の幸福や善をあま
りに信じすぎることだ」と、こういう性質の意識をもっていたある私
の友人が言ったことがある。「そして、それらの幸福や善が移ろいや
すいことを悲しむ私を、何ものも慰めえないのだ。移ろいゆくのだと
考えただけで、私はぞっとし、まごついてしまうのだ。」私たちもた
いてい、同じことである。動物的な興奮性や本能がすこしばかり冷め
て低下しても、動物的な頑健さがすこしばかり減じても、苦痛―閾が
弱まったり低下したりしてすこしばかり鋭敏になっても、私たちの日
常のあらゆる喜びの源泉の核心に巣くっていた虫がその正体をすっか
りあらわして、私たちは憂鬱な形而上学者になってしまう。生きるこ
との誇りも、この世の栄耀(えいよう)も、しぼんでしまうだろう。
結局、それは血気さかんな青年と白髪の老年との間のたえざる争いに
ほかならない。そして、最後の言葉を語るのは、老年なのである。つ
まり、人生をまったく自然主義的にながめる見方は、それが初めにど
れほど情熱にあふれていようとも、かならず悲哀に終わるのである。

この悲哀は、あらゆる生粋の実証主義的、不可知論的、あるいは自
然主義的哲学体系の核心にひそんでいる。たとい陽気な健全な心が、
刹那に生き、悲惨なことを無視したり忘れたりする不思議な力をもっ
て、その最善をつくそうとも、なおその背景には、不吉なものが厳と
して存在していると考えられるのであって、その酒宴(うたげ)の席
では、髑髏(どくろ)が歯をむき出してにやりと笑っていることであ
ろう。個人の実際生活では、現在の事実について人の気持ちがめいっ
たり朗らかになったりするのは、すべて、その現在の事実と関係のあ
る未来のさまざまな計画や希望に左右されていることを、私たちは知
っている。現在の事実にその価値の主要部分を与えるものは、それが
未来に対してもつ意義と未来への構想なのである。将来なんら実りを
結ばないとわかれば、今はどれほど好ましく思われようとも、現在の
事実は、その輝きも色もやがて消えうせてしまう。潜行性の内科的病
気に冒された老人は、最初のうちはいつものとおり笑ったり、酒をた
らふく飲んだりするかもしれない。しかし、医者から病状を打ち明け
られて自己の運命を知るにいたると、その知識が、笑ったり飲んだり
しても満足を得られなくしてしまう。笑いも飲酒も死の道連れとなり、
蛆虫がその兄弟となり、そのすべてが味気ないものになってしまう。


筆者注:

 髑髏から逃げるな。それが自分の心中から出たものであるか
ぎり。逃げないで、逆に正面から向き合って、髑髏の本質を見
極めよ、とルターや聖徳太子なら言うかもしれません。

『宗教的経験の諸相』上 P211

あらゆるものの背後には「死」と「暗黒」



しかし、これは世界が病んでいるという考え方の最初の段階にすぎな
い。人間の感受性をもう少し大きくし、人間を不幸――閾のかなたへも
う少し遠く追いやってみるがいい。そうすれば、ときおり訪れてくる成
功の瞬間のもつ善い性質は、台なしになり、そこなわれてしまう。生ま
れながらのあらゆる善きものが滅びてしまう。富は飛び去る。名声は一
息(ひといき)の間にすぎなくなる。愛は欺瞞となる、青春と健康と快
楽とは消えうせてしまう。つねに塵(ちり)に帰り失望に終わるものが、
果たして私たちの魂の求める真の善でありうるであろうか? あらゆる
ものの背後には、普遍的な死という偉大な幽霊が、一切を包含する暗黒が
ある。――

「日の下に、人の労してなすところのもろもろの動作(はたらき)
は、その身に何の益かあらん。われ、わが手のなせしもろもろの業
(わざ)を見たり。ああ、みな空にして、風を捕うるが如し。世の
人に臨む所のことは、また獣にも臨む。是も死ねば彼も死ぬなり。
みな塵より出で、みな塵にかえるなり。
……死ぬる者は、何事をも
知らず、また、応報(むくい)を受くることも重ねてあらず。その
憶えらるることも、遂に忘らるるに至る、また、その愛(いつくし
み)の悪(にくしみ)も嫉(ねたみ)もすでに消え失せて、彼らは
日の下におこなわるることに、もはや何時までも関(かかわ)るこ
とあらざるなり。
……それ、光明(ひかり)は、快きものなり。目
に日を見るは楽し。人多くの年生き存(ながら)えて、そのうち凡
(すべ)て幸福(さいわい)なるもなお幽明(くらき)の日を憶う
べきなり。そは、その数も多かるべければなり。」

 簡単にいうと、人生と人生の否定とが解きほぐしがたく混ぜ合わされ
ているのである。しかし、もし人生が善であれば、人生の否定は悪とな
らざるをえない。それにもかかわらず、この二つは等しく人生の根本的
な事実なのである。したがって、すべて自然のままの幸福は矛盾を含ん
でいる。そのまわりには墓場の匂いが立ちこめているのである。

 ものごとをこのような目でながめる人、そこで当然、そういう瞑想か
ら生ずる、喜びを破壊しつくす冷たい心境になることをまぬかれない人、
こういう人に対して、健全な心が与えることのできる唯一の慰めは、
「たわごとはよしたまえ、戸外へ出てみたまえ!」と呼びかけるか、
「元気を出したまえ、おい君、そんな不健全な考え方をすてる気になり
さえすれば、万事うまくゆくさ」といって聞かせることである。しかし、
そんなしらじらしい乱暴な口のきき方が、本気で、分別のある答えと見
なされうるものであろうか? 幸運にもつかんだ束の間の自然的な幸福
に、ただ成り行きまかせで甘んじているというだけの生き方に、宗教的
価値を認めようとするのは、うかつさと皮相さとを神聖化するにほかな
らないであろう。私たちの悩みは、事実、そんな方法で癒やされるには、
あまりにも根深いのである。そもそも私たちが、死ぬことができる、病
気になることができる、という
事実が、私たちを悩ますのである。私た
ちがさしあたっていま、生きており、そして健康である、という事実は、
その悩みにとっては重要な問題ではない。私たちは、死と関連していな
い生を、病気にかかることのない健康を、滅びることのないような種類
の善を、つまり、自然的な善を超越した事実のうちにある善を、求める
のである。


筆者注:

悪の本質を自分のなかに凝視させられた人間は、その記憶を払い
のけることができない。すべての意識は直接的に「悪」あるいは
「死」あるいは「病」という本質にむすびつけられ、自分の居場所
がみつけられない。まったく反対の極地に存在する「生命」を体験
し、それを自分の確かな本質であると自分で認識するまでは、この
「憂鬱な意識」は打ち消されることがない。つまり、神秘体験
A
到達することだけが、この場合の治癒方法なのだが、
B onlyは、永
遠にその境地に到達しないタイプなのだ。

「もっと努力せよ」と掛け声をかけることは本人にとって必ずし
も「善い」ことにはならない。このジェイムズの文章には伏せられ
ているが、
B onlyの人たちは、つねに崖っぷちに立っている。最後
の決断を行うばかりの立場なのだ。

 なぜB onlyの境地から脱出できないか、なぜA経験に到達できな
いのか、とひとは問うだろう。だが、答えはない。人間が主体的に、
自らの意思で、神秘体験
Aに到達できるわけはない。

同じように、自らの意思で神秘体験Bから脱け出ることもできな
い。神秘体験とは、みずからの意思で到達することはできない。ま
た、いったん到来したが最後、その記憶を消去もできない。

形 容 さ れ た B (2)