『宗教的経験の諸相』上 P205

「閾」


最近の心理学は、一つの精神状態が別の精神状態へ移る点を示す記号と
して、「閾(いき)」という用語をさかんに用いている。そこで、音とか
圧力とかその他およそ人の注意をひくのに必要な外界の刺激の量を示すた
めに、人間の意識の閾ということが言われるのである。高い閾をもった人
は、低い閾の人ならたちまち目をさましてしまうような量の騒音のなかで
も、うたたねしていられるであろう。同じように、どんな種類の感覚のわ
ずかな差異にでも敏感な人は、低い「差異―閾」をもっていると、といわ
れる。――つまり、そういう人の心はたやすく閾を飛び越えて、その差異
を意識するのである。そこで、それと同じように、私たちは、「苦痛―閾」、
「恐怖―閾」、「不幸―閾」ということを言ってもよいであろうし、そし
てそういう閾は、ある個人の意識はそれをすばやく飛び越えるが、他の個
人の場合には、それがあまりにも高すぎて意識がその高さに達しないこと
がよくあることが知られるのである。多血質で健全な心の人々は、ふつう、
不幸境界線(ライン)の陽のあたる側で暮らしているが、元気のない憂鬱
な人々は境界線の向こう側で、暗黒と不安のなかで暮らしている。世の中
には、生まれつきシャンパンの一、二本ぐらい特権のように認められた暮
らしをしている人々がいるかと思えば、また、苦痛―閾のすぐ近くに生ま
れ合わせて、ごくわずかの刺激にあっても宿命的にその閾を越えてしまう
ような人々もいるのである。

 ふつう、苦痛―閾の一方の側で暮らしている人が、他方の側で暮らして
いる人とは違った種類の宗教を必要とするのは、当然なことではあるまい
か。ここに、要求の型が違うとそれに応じて宗教の型も異なるのではない
か、というこの両者の相対関係の問題がおのずから生じてくる、そしてこ
の問題は、今後なおずっと重要な問題となるであろう。しかし、一般的な
観点からその問題に立ち向かう前に、私たちはまず、健全な心の人と対照
させて病める魂の人と呼んでよいような人々が、彼らの閉じこめられてい
る牢獄、彼ら自身の特有な形式の意識の秘密について語らずにいられない
言葉に耳を傾けるという、いやな仕事にとりかからねばならない。そこで、
一度生まれの人間と、彼らが説く空色の楽観的な福音とにはきっぱりと背
を向けることにしよう。外観はどう見えようとも、「宇宙よ、万歳! ―
―神は天にいまし、世のことすべてよし」などと単純に大声で叫ぶことを
止めようではないか。むしろ、あわれみと苦痛と恐怖、そして人間の頼り
なさの感情がいっそう深いものの見方を開きはしないか、そして事態の意
味を解くべきより精密な鍵を私たちに手渡してくれはしないかどうか、を
考えてみようではないか。


筆者注:

 ここでジェイムズは自らの立場を規定する。

あなたと私は立つ場所が異なっている。
あなたは健全な心の立場で苦痛も悲しみももってはいない。
だが、私はあなたと私の間に存在するらしい垣根(「閾」)を
越えてしまっている。

あなたには、私の世界が想像できまい。
苦痛と恐怖の世界が私の住む世界なのだ、
とジェイムズは主張した。

では、その苦痛の世界とはなにか?
  ジェイムズはおもむろに次のように語り始める。

『宗教的経験の諸相』上 P210

失敗、また失敗!



 失敗、また失敗! 世界は、機械あるごとに、そういう印象を私た
ちに与えるのである。私たちは、私たちのしでかしたさまざまな大失
策、私たちの犯した数々の悪事、私たちが機会を逸して履行しなかっ
たことども、私たちが自分の職業に適していなかったことを証明する
あらゆる記念物、こういうものを、世界中にばら撒いているのである。
だから、世界は、はげしい呪いの言葉をあびせて、私たちを打ちのめ
そうとするのだ! 軽い罰金を納めたのでは、ただ謝罪をするばかり
では、形ばかりの償いをしたくらいでは、世界の要求を満足させるこ
とはできはしない、世界によって取り立てられた人肉の一片一片には、
人間の血がしみついている。人間の知っているもっとも微妙な形式の
苦悩は、そういう結果にともなう不快きわまる卑屈さにつながってい
るのである。

 しかもそういうものが人間経験の枢軸をなしているのである。いた
るところいつでも見られる現象であれば、それが人生の本質的な部分
であることは明白である。ロバート・ルイス・スティーヴンスンはこ
う書いている、「事実、人間の運命には、どんな無鉄砲者でも否定で
きない、一つの要素があるものだ。その他のことなら何でも成功する
のに、それだけには成功できない運命にわれわれはある。失敗こそが
われわれに定められた運命なのだ。」
(1) 私たちの本性がこのよう
に失敗に根づいているものであるなら、神学者たちが、失敗をば本質
的なことと考え、失敗から生じる謙虚さという個人的体験によっての
み、人生の意義についてのより深い感覚が養われると考えたとしても、
なんの不思議があろう。
(2)

(1) 彼は特有の健全な心をもって、付言している。「いつまでも
上機嫌で失敗し続けるのが、われわれの努めである。」

(2) 多くの人々が奉じる神は、彼らの失敗に対して世論がくだし
た有罪の判決に上告する控訴院にすぎない。私たちの罪や過失が
すっかり数え立てられてしまった後でも、ふつう、なんらかの価
値がなお後に残されているものだということは、私たち自身、意
識していることである。――罪や過失を認めて、それを後悔でき
という私たちの能力こそ、少なくとも可能的には
in posse
り善い自己の萌芽なのである。しかし、世界は現実の
in actu
私たちとつき合ってくれるのであって、可能的な in posse 私た
ちとではない。だから外部からは推測できないこの隠された萌芽
のことを、世界はけっして考慮しない。そこで私たちは、私たち
の悪を知っているとともに、私たちの内にあるこの善をも知って
いる公平な全知者に頼るのである。私たちは悔い改めて、全知者
の恩恵に身をゆだねる。全知者によってのみ、私たちは最後の審
判(さばき)を受けることができるのである。このようにして、
この種の人生経験から、確かに神の要求が生じるのである。


筆者注:

これらの記述の背後には、あちらへ行ってしまった人の深い
絶望感が表現されている。いささかの成功と思えるものも、
結局は失敗につながる。すべては失敗の連続としか映らない。

形 容 さ れ た B (1)

『宗教的経験の諸相』上 P207

ひびのはいった鐘


 まず、この世における成功の経験というような不確かなものごとが、
どうして堅固な投錨地となることができるであろうか。一本の鎖は、
その鎖の一番弱い環ほどにも強くはない。そして、人生とは要するに
一本の鎖なのである。もっとも健全な、そしてもっとも富裕な生活に
あってさえも、つねに、病気、危険、災厄などの環がいかに多くさし
はさまれていることであろう。昔の詩人が歌っているように、歓楽の
泉という泉の底から、思いもかけず、苦(にが)いものが、立ちのぼ
ってくる、かすかな嘔吐感、喜びのにわかの消滅、一抹の憂鬱、葬い
の鐘を鳴りひびかせるものが。というのは、それらのものは、つかの
間のものであっても、深い領域から立ちあらわれてくる感じをともな
い、しばしば、人をぞっとさせるような説得力をもっているからであ
る。止音器が弦をおさえつけるとピアノが鳴り止むように、人生の響
きもそれらの感情に触れると鳴り止んでしまう。

 もちろん、音楽ならふたたび鳴り始めることができる。――繰り返
し繰り返し――間(ま)を置いて。しかし、人生の場合には、健全な
心の意識は癒やしがたい不安定の感じを残したまま置き去りにされて
しまう。それはひびのはいった鐘である。それは、お情けで、いわば
偶然に、呼吸(いき)をしているだけなのである。

 このような冷厳な瞬間をみずから経験したことのないほど健全な心
にくるまれた人間がいるとしても、その人が反省的な人間であるなら、
彼は一般化して考え、自分自身の運命と他人の運命とをひき比べてみ
るに違いない、そして、そうすることによって、自分が難を免れたの
はまったく偶然の幸運であって、他人との間に本質的な差異があるか
らではない、ということを知るに違いない。


筆者注:
私は知っている。
暗い直観。
底の抜けた管のなかをまっさかさまに転げ落ちる感覚だ。
暗い。
誰かの悲鳴が聞こえてくる。
喉元を締めあげられる。
糞っ!

これらは、Bを覗きこんだ人間が行う描写である。
Bの経験がなければ、「ひびののはいった鐘」は書けない。