未完フーガの完成形
未完成の3主題フーガこそ、「フーガの技法」の最大の謎といえます。
この曲には、ほかのすべての曲に共通して用いられている主題が、
一度も用いられていないのです。
ノッテボーム(G.Nottebohm,1881)は、このフーガに含まれる3つの主題が、
基本主題と結合可能であることを明らかにしました。
つまり4つの主題を同時に演奏して対位法的に問題ないということです。
この発見によって、この曲が「フーガの技法」の一員であることが
広く受け入れられるようになりました。(今でも反論はありますが・・・)
私はこの曲の構造を調べ、また他の曲との比較検討を行い、
4主題フーガという前提で、この曲のあるべき姿を追求してみました。
結論
(1)曲の構造:未完フーガの続きには、第4主題=基本主題の呈示と、
4つの主題の結合が含まれるものと推定しました。
(2)曲の小節数:未完フーガは293小節前後であったと推定しました。
(3)第4主題の呈示〜声部の順序:第4主題はソプラノ→アルト→
テノール→バスの順に呈示されるものと推定しました。
(4)音域の制限:未完フーガには、両手で演奏でき、かつ各声部が
一定の音域を守るという制限があります。
(5)「鏡像」フーガである可能性:未完フーガを上下転回すると、
おかしな和音が生じるため、「鏡像」フーガではありえません。
詳細を以下に述べます。
(1)曲の構造
曲は4声、4/4拍子。自筆の原稿は239小節で中断されています。
3主題によるフーガで、以下のような部分に分けることができます。
小節 |
内容 |
小節数 |
1〜115
|
第1主題の呈示、展開 |
115
|
114※〜193
|
第2主題の呈示、2つの主題の結合 |
80
|
193〜239<
|
第3主題の呈示、3つの主題の結合 |
47<
|
※カデンツに重複して第2主題が呈示されます。
ここから容易に想像できるように、これに続く部分には、
第4主題の呈示と、4つの主題の結合が含まれることでしょう。
(2)曲の小節数
未完フーガには、隠されたもうひとつの構造があります。
第1主題は曲の冒頭でバス声部に呈示されますが、
これとまったく同じ形で61小節、148小節、234小節にも現れます。
これ以外にバス声部に冒頭と同じ形の第1主題はありません。
小節 |
内容 |
小節数 |
1〜
|
第1主題の提示 |
60
|
61〜
|
第1主題の再呈示 |
87
|
148〜
|
第2主題の呈示後、第1主題の再呈示 |
86
|
234〜
|
第3主題の呈示後、第1主題の再呈示 |
6<
|
2番目と3番目の部分がほぼ同じ小節数であることに注目しました。
Contrapunctus 8 や Canon alla Ottava において、
バッハは曲を小節数による対称構造で作り上げています。
Contrapunctus 8 |
小節 |
内容 |
小節数 |
1〜38
|
第1主題の呈示 |
38
|
39〜92
|
第1主題と第2主題の結合 |
54
|
93〜146
|
第3主題の呈示、第1、第2主題の再提示 |
54
|
147〜188
|
3つの主題の結合 |
42
|
Canon alla Ottava |
小節 |
内容 |
小節数 |
1〜
|
上声に主題呈示(主調) |
24
|
25〜
|
上声に主題呈示(属調) |
16
|
41〜
|
上声に主題呈示(属調、反行形) |
21
|
62〜
|
上声に主題呈示(主調、反行形、変形) |
15
|
77〜
|
上声に主題呈示(主調) |
27
|
同様の対称構造が未完フーガにも予定されていたものと考えました。
このことから、未完フーガの4番目の部分は60小節前後、
曲全体では293小節前後になるものと推定しました。
(3)第4主題の呈示〜声部の順序
未完フーガの3つの主題は、最初に呈示される際、
それぞれ異なった声部順序で呈示されています。
その声部順序は、4つの単純フーガのうち3つと共通しています。
未完フーガ |
単純フーガ |
声部順序 |
第1主題 |
Contrapunctus 2 |
バス→テノール→アルト→ソプラノ |
第2主題 |
Contrapunctus 1 |
アルト→ソプラノ→バス→テノール |
第3主題 |
Contrapunctus 3 |
テノール→アルト→ソプラノ→バス |
|
Contrapunctus 4 |
ソプラノ→アルト→テノール→バス |
このことから、第4主題の呈示はContrapunctus 4と同じく
ソプラノ→アルト→テノール→バス の順番になると推定しました。
(4)音域の制限
未完フーガは、他のほとんどの曲と同じく両手で演奏できます。
つまり、両手で演奏できる範囲を逸脱するような音域はありえません。
また「フーガの技法」に含まれる4声部の曲は、
各声部が声楽的に理にかなった音域をある程度守っています。
|
バス
|
テノール
|
アルト
|
ソプラノ
|
未完フーガ以外 |
C-g'
|
A-d''
|
e-a''
|
a-c'''
|
未完フーガ |
C-d'
|
c-b'
|
f-g''
|
d'-c'''
|
以上のように、未完フーガの続きには、両手で演奏でき、
かつ各声部が一定の音域を守るという2重の制限があります。
(5)「鏡像」フーガである可能性
「4つの主題を含み、後に全声部が転回される最終フーガ」
バッハの故人略伝に記された「フーガの技法」に関する記述です。
この記述を未完フーガに関するものと捕らえ、未完フーガが
転回対位法によるフーガであるという説が流れました。
結論としては、未完フーガは転回対位法による曲ではありえません。
ほかの転回対位法によるフーガに習って、
曲を上下転回してみれば一目瞭然です。
最も顕著なのは第3主題呈示前のカデンツで、
下属調に仮終止したこのカデンツを上下転回すると、
e-c'-e'-e''というおかしな和音になってしまいます。
仮終止にしろ、こんな和音をバッハが使うとは考えられません。
(実験0.参照のこと)
また、未完フーガの続きの中で、4主題がすべて反行形で示される
という説もありますが、これにもあまり賛成できません。
バッハは他の多主題フーガにおいて、すべての主題の結合を、
正置形・反行形の両方で示した事がないからです。
個人略伝において、ここで言う「転回」は"umgekehret"
(umkehren=上下逆さにする)と表現されています。
文字通りに受け取れば、上下転回を示していると解釈できます。
しかし、これとよく似た単語"verkehret"(verkehren=逆にする)が、
10度や12度の2重対位法による声部の入れ替えを示した例があるのです。
(Weckmann,M.の「短くともわかりやすい2重対位法」など)
このことから、個人略伝における「後に全声部が転回される※」
という表現は、4つの主題が4重対位法によって入れ替えられ、
様々な配置で呈示されることを示している可能性があります。
※in allen 4 Stimmen Note fur Note umgekehrt werden sollt,
(全4声部が一音残らず転回される予定の)
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