(注11)
(宝永7年5月4日夜、白隠が松本の恵光禅院に行く
につき、正受より「無相心地戒」を授けられる)
市原豊太、日本の禅語録より引用する。
或日、白隠が松本の恵光(ゑくわう)禅院へ行き、
出家の守るべき完全な戒律を受けようとして、師に
お別れした。師は落着いてゆったりとお告げになっ
た。「禅宗には無相心地の戒律がある。之を名づけ
て金剛宝戒と言ひ、或は円頓自性戒(ゑんどんじし
やうかい)と言ふ。達磨大師は言はれた、もし仏を
見ようとするならば、どうしても見性(けんしやう)
しなくてはならぬと。本性は取りも直さず仏なのだ。
…………
無相心地の大戒はこれを得るのが大いに難しく、
実行することも容易ではない。これ即ち仏の知見な
のだ。過去・現在・未来のあらゆる方角に居られる
仏は、此の戒の本体を伝えるために、救ひの請願の
輪に乗って、次々に此の世に出現なさったのだ。も
し人が此の戒を体得しようと思ふならば、先ずどう
しても見性しなくてはならぬ。もしまだ見性しない
のに、自分はこの戒の本体を体得したなどと言った
ら、これは大嘘吐(うそつき)の人だ。汝は今後よ
く法を護り続けて、法を自分の眼や生命と同じやう
に大切にして行き、片時も棄てないならば、これこ
そまことに仏の弟子なのだ。たとへ体の大きな鬼が
来て、汝を小脇に挟んで三千大千世界を走り狂ひ二
三回廻って、終に大熱地獄の中に堕(お)ち、量り
知れぬ苦しみを受け尽しても、一度指を弾(はじ)
くだけの少時間も此の戒を失はないならば、これを
名づけて真の仏弟子といふ。
画題:『阿弥陀三尊来迎図』
鎌倉時代(14世紀)
絹本著色 掛幅 No.215
ベルリン東洋美術館蔵
平山郁夫
『秘蔵日本美術大観7
ベルリン東洋美術館』
講談社、1992
この画はそもそも大乗仏教、
すなわち念仏門の概念を描く。
念仏さえ唱えれば、
阿弥陀三尊がお迎えにきて
くださるのだ。
その一方、
小乗仏教、すなわち
自性を証する聖道門では、
すべて自分でよじ登らねばならない。
観音菩薩、勢至菩薩の段階までは
比較的簡単に到達できるが、
さらに阿弥陀如来の段階まで
進まねばならない。
ところが、この両者の間には
かなり深い渓谷があり、
「その間、体の大きな鬼が来て、
汝を小脇に挟んで三千大千世界を走り狂ひ、
終に大熱地獄の中に堕(お)ち、
汝は、量り知れぬ苦しみを受ける。」
この現象が何を意味するかを悟ること、
これが金剛宝戒だ、
と正受は伝える。
テレサの報告と正確に符合している。
なお、無相心地戒の創始者は、
慧能(638-713)、中国禅宗の第六祖である。
ここでいう「見性」とは、後世の仏家がそう称するように、神秘体験Aのことを意味するのではなく、神秘体験Aを経験したのち、暗いトンネルを潜り抜け、すなわち地獄のなかを通り、神秘体験Bを経験したあとに到達する大悟のことを指している。(玉城康四郎先生が指摘された『自説教』のなかの「後夜の偈」)。無相心地とは、その大悟のことを意味しているように思われる。
わかっているとは思うけれども、間違えるなよ、と正受は念を押した。
(正受は一切を秘密にすることを白隠に要求し、白隠はこれを受けた)
引き続き市原豊太の訳文を引用する。
もし経を読んだり師家の話を聞いたりするだけで法を体得したと考えたり、観念的な分別で考えて、悟りを得たとしたり、まだ悟れないのに悟ったといひ、まだ法を体得しないのに体得したと思ったりすれば、これを傲(おご)り高ぶる慢心の人とする。これらはことごとく外から来た悪魔の種族なのだ。今後まじめに参禅し、自己の本性を掌(てのひら)を見る如く明らかに見、ありありと真理を見きはめる男が見つかったならば、必ず綿密に大法を修行することを依頼せよ。右に言ったやうな師弟間の秘密の口伝は、決して中や下の者共の信じて受けるべきものではない。
前半においては、正受は仏道の究極は、修行の末にその個人が受ける体験に立脚することを強調する。これらの体験を得ないまま、体得したと称するのは邪道である。また、他人の経験を聞いて、それを信じること、所謂「信仰する」ということも邪道である、とはっきり述べ、他人(ひと)の話を聞いて信仰するような輩には決して仏道のコア、核心は教えるな、と命じた。ここに師弟間の秘密協定が成立した。
ところで、同じ正受の『垂語』には、
我が禅宗の真の後継者を求めると、さながら日中に星を尋ねるに等しい。今我が日本国を箒(ほうき)で一掃きして見ると、ただ此の正受一人だけが残る。
とある。当時の日本の人口はどれだけだったのか、定かではないが、かりに2500万であったとしてみよう。自分と同じ宗教体験を持った人間が存在する確率は2500万分1だと正受は言っているのであるから、この秘密協定は白隠にたいして、一切何もかも喋るな、と要求しているのと同じである。少なくとも、あの二つの体験をふたつながらに体験したとはっきり理解できる人間が出て来るまでは、一切話すことはまかりならぬ、と厳重な口封じをしたのであった。
正受はこのように禅宗の流儀に則って、彼の人生を貫いた。
では、このような禅は、われわれの生活にどのように役に立つものであろうか。この重要なポイントについては後で考えることにしよう。