さらにもう一点、
4.正受の法嗣は誰か
『正受老人草稿』にはあるが、『正受老人崇行録』に欠落している
次の重要な偈がある。
或人賀設於嗣 或る人 嗣を設けしを賀して
而以偈矣和 偈を以てするに和す
1 生来初是不堪怡 生来(しょうらい) 初めて是れ 怡(よろこび)
に堪えず
2 敲我得風顛漢児 我を敲(たた)いて 風顛漢児(ふうてんかんじ)
を得たり
3 長憶山僧百年後 長く憶(おも)う 山僧(さんぞう)百年の後
4 断雲白地立宗枝 断雲(だんうん)白地(びゃくち)に 宗枝(しゅう
し)を立(りっ)せん
ある人が 山僧(わし)が法嗣を得たことを祝って
詩を贈ってくれたので これに韻を合わせて
1 生れて初めて こんなうれしいことはない
2 自分を策励し続けて 遂に 山僧(わし)は風顛(ふうてん)の跡継
ぎを得た
3 百年後の 山僧(わし)の亡くなった後のことを思いやってみるに
4 ちぎれ雲しかない白地に この風顛が禅宗の枝を確立するであろ
う
正受の法嗣というのはいったい誰なのかという問題だが、白隠とす
るには無理がある。彼は正受菴にわずか8か月しか留錫せず、再び訪
れていないからだ。「或る人」とは不白にちがいないが、不白も喜ん
でくれた法嗣はきっと宗覚にちがいない。というのも、偈の最後に書
いてある「宗枝」は諱(いみな)の宗覚の「宗」と、字(あざな)の道樹
(その下で仏がさとりを開く樹、菩提樹、覚樹)の「樹」にちなんだ
ものとうけとれる、としている。
その一方、中村氏は、白隠の最晩年の著書『壁生草(いつまでぐさ)
』のなかでは、正受が宗覚を評した言葉として「彼の如きは実に頼り
無し」を引用し、正受が白隠にかような言辞を呈したのは、正受が白
隠をからかったのではないか……とされているが、この解釈はあまり
説得力があるとは思われない。
中村博二の指摘した以上四点が、どうも白隠にたいする恒常的な疑
問ということになっているようだ。
白隠は沢山の本を出版したが、彼の主張は種々の本に分散して配置されており、しかも禅師の常として、肝心要(かなめ)のポイントをはぐらかして書いたように見えるので、初心者にも専門家にも解読することが難しい。
彼の自伝も、日付が書いてある箇所はまれで、大抵は「一日」と書かれているだけであるから、それが何年何月何日のことであったのか、読みとれない難しさも控えている。
たとえば中村博二氏は、次の点が符合しないと言っておられる。これらの不合理に見えるポイントを、彼の著書『正受老人とその周辺』(信濃教育会)からとりだして整理してみることとしよう。
1.5月4日の出来事
白隠が57歳のとき著した『寒山闡提記聞(かんざんぜんたいきもん)』
巻三によれば、
宝永5年2月17日夜、 英巌寺で大悟した。そして、
宝永5年4月末、 正受菴に来た。
白隠自筆の『遠羅天釜』巻の下によれば、
宝永5年5月4日の夜、 霖雨ののち、白隠は正受から「妄想情解」と
罵られ、白隠が「妄想情解」とどなり返した
ところ、正受は白隠を二、三十なぐって堂下
に突き落とした。
ところが、『寒山闡提記聞』巻三によれば、おなじ
宝永5年5月4日夜、 松本恵光禅院へ行って受戒することを正受が
認め、「無相心地戒」についての長い垂示を
与えた。
……と、5月4日の同じ夜に、一方では堂下に突き落とされながら、同
時に「無相心地戒」の垂示を授けられるのはおかしい、としている。
2.帰国の際、正受が一、二里も見送ったこと
『白隠年譜』によれば、
宝永5年11月、帰国のさい、正受が恋々と一、二里も送ってきたばかりか、別れ際に正受が白隠にたいして、正受の年齢まで生きていたら盛業を致すとか、正受菴の後住になれと懇願したとか、そのときに白隠が地上に平伏礼拝して泣いて別れた、とか書いてあるが、これらの記述はまったく腑におちない。当初怒り狂っていた正受が、僅か半年のあいだに彼の態度を豹変させ、白隠のあとを追いかけてきて、恋々と正受菴への永住を頼んだりするものであろうか。むしろこの部分は、白隠の大言壮語癖を示すものとして理解したほうがわかりやすいのではなかろうか、と中村氏は指摘している。
3.白幽真人の存在
『夜船閑話(やせんかんな)』によれば、白隠は、
宝永6年には白隠はすでに禅病に悩んでいた。修行すればするほど禅
病は重くなり、結局、
宝永7年庚寅(こういん)、山城国の白河、つまり現在の京都市左京区
北白川に住んでいた白幽先生を訪ね、彼に内観の法を伝授されて禅
病を治した。そのときの白幽真人は年齢180歳、ないし240歳であ
った、と書いているが、陸川堆雲氏の研究では、白幽真人はそのと
きは実在しているはずはない、……としている。
実際に白幽真人という人は実在したのだが、
宝永6年に白幽真人は亡くなっていたのだから、この記述で白隠は明
らかに嘘をついている、と非難しているのである。
画題:柴田是真『戯画図巻』
江戸時代後期(19世紀前期)
紙本墨画淡彩 巻物
(藤娘の洗髪、瓢箪と鯰)
大英博物館蔵
平山郁夫、
『秘蔵日本美術大観2大英博物館U』、
講談社、1992
「瓢箪鯰」と「藤娘の洗髪」との間に
どのような関係があるというのか。
関係はない。
柴田是真の画帖に
たまたま隣り合わせただけ、
の関係のようだ。
では、「瓢箪」と「なまず」は
どのような関係があるのか。
関係はない。
瓢箪でなまずは掴まえようがない。
関係がなさそうなときは、
無理にこじつけずに、割り切ろう。