白隠の人格形成期についての記述については、中村氏の
指摘されるように、チグハグで辻褄の合わないポイントが
あって、合理性を尊ぶ現代人には理解し難い。

 筆者はその道の専門家ではないが、中村氏の解釈につき、
次の点で異論がある。



1.白隠は嘘をいうタイプではない。


 この本で取り上げたような人物は、玉城康四郎、林武、
テレサ、白隠、いずれも自己にきわめて忠実な人間であり、
自分の心に生じた事態を間違いなく、たとえそれが自己に
不利益をもたらす場合であろうと、正確に報告することを
天分とする人たちである。したがって明らかに嘘をついて
いる場合は、逆に彼が嘘を書かなければならなかった事情
を推察し確定するのが、われわれの仕事であろう。



2.禅病は病気ではない。


 玉城康四郎、林武、テレサの場合につきわれわれは、神
秘体験
Aに到達した人間のその後の経過について観察して
きた。玉城康四郎の場合は例外的で、(軍隊に召集され、
思考がとぎれたため)神秘体験
Aからなんと50年後にそれ
は現われたが、林武の場合も、テレサの場合も、それは一
年以内にはっきりと現われた。それは当初、自分では理由
がわからないまま、本人を襲う。理由のない虚脱感からは
じまり、死への欲望が強く本人に現れる。その欲望は神秘
体験
Aの内容と矛盾している。だから、本人はこの現象を
まったく理解することができない。本人が理解できないの
であるから、周囲の人たちにも理解できない。その欲望の著しい強さ、神秘体験
Aで樹立された価値観との葛藤、欲望を実行に移せないことからくるフラストレーション、これらは通常は周囲の人たちによって理解されることはまったくない。そのため、この現象は、現代ではノイローゼと称されることもあり、憂鬱症、あるいはただ単に「鬱」といわれることもある。どうやら「死」の危険性があるということだけは、周囲の人たちにもぼんやりと理解できる。

正 受 は 寒 山 拾 得 か ?

3.秘密協定


 正受老人という人は先にお話したように、「間違って」この世に生まれてきた人間であった。生まれてきたこと自体が初めから間違っていたのだし、周囲の人間からすれば、「邪魔」な存在であった。彼が生まれた寛永
19(1642)には長兄の信吉は8年前に亡くなっていたが、次兄の信政はすでに45歳で、3年前から沼田城主になっていた。彼には男の嗣子もいた。

 母、李雪は、素性の知れぬ20歳の女性であったが、父親の信之には正妻が亡くなった後、後添えというのだろうか、お京というしっかり者の女性がいた。したがって母子ともに不要な存在だったからだろう、正受が生まれるとすぐに親戚の飯山城に預けられてしまった。このような変則的な環境に生まれると、人間はどうしても哲学的な人間になってしまう。それがよいことなのか悪いことなのか一概には言えないが、わずか15歳にして再見性してしまった正受にとって、生きることの理想は「寒山拾得」だった。

 寒山拾得という二人の男は、世間から姿を隠すことを生活のモットーとした。腕力の強さ、押しの強さ、高名な世評、等々の俗世界の価値基準を寒山拾得は嫌った。

 正受は、まさしく寒山拾得タイプのメンタリティーを持っていた、と考えてよいのではなかろうか。だとすれば、正受は自分が他人(ひと)に対して行なったすべてのアクションが秘密裡に保たれるように按配した、とは考えられないであろうか。


 憶測をたくましくすれば、すべては正受がやったことなのである。

 林武の場合がそうだったように、この症状の治療にあたることができるのは、既経験者だけである。既経験者はなんと、一滴の、一錠の、一服の薬も用いずに、理屈を当人に教えるだけでこの「病」を治してしまう。昔、ひとは森田正馬を神さまだと云った。既経験者でなければ、すなわち、経験のある神様でなければ、その理屈は分からないものらしい。

 だから問題は、宝永年間に誰が「治療」のコツを知っていたのか、ということになるだろう。世評通り、多分白幽仙人はそのコツを知っていたのであろう。だが宝永7年に(その前年に白幽真人は亡くなっていたが)たとえ白幽仙人が生きていたとしても、180歳、あるいは240歳で、満25歳の白隠に禅病の治し方の理屈を教え込む気力があった、とはまず考えられまい。

画題:松谿『寒山拾得図』(部分)
      
15世紀中期 紙本墨画
   東京 徳川黎明会
   田中一松ほか
      『原色日本の美術大
11巻 水墨画』
      小学館 
1970

         寒山拾得、ともに唐代の僧。
      寧波の南、
      天台山の近くに住んだ実在の人物。

         手前濃墨で描かれたのが寒山、
      向こう側の淡墨が拾得。