以上で彼女の論理は完結する。彼女は自分の提唱した命題、
神ははたして存在するのか
神ははたして私を救うのか
について、自らの内奥を究めることによって真実を捉えるべく努力し
た。
彼女は、当時聖なる恩寵と呼ばれていた神秘体験Aに到達したが、
それだけでは説明のつかない「彼女の悩み」に行きついた。
それを彼女は、いったんは罪深き自分を「清め」、「精錬し」、
「純化する」もの、すなわち聖なる恩寵を高めるための道具だと考え
たが、その後、考えを改め、自己に極めて忠実になり、悩みも真、聖
なる恩寵も真なりとして、これを対立させた結果、悶絶してしまった。
彼女は無教養のため、というよりは、そのおかげで、とても自分に
忠実であった。自分の心の探索とその結果生じた事態につき、目を閉
じることがなかった。アウグスティヌスのように、闇の底は底知れぬ
ものとして切り捨てようともせず、ひたすらに堪えてその真実を知ろ
うとした。
その結果、悶絶させられた。
テレサの生きていた時代には、他の解釈など与えられていなかった
のだから仕方がない。
では、この経験はテレサに何も与えなかったのであろうか。むろん
そうでもない。
この経験で彼女は、およそ世の中(現世)にある、最も善きものと、
反対に最も悪しきものを、二つながら奥底まで経験してしまったのだ。
彼女にはもう怖いものなど残ってはいなかった。神の救いでさえ必要
でない強靭な人間に変身してしまっていた。
このように女性の身でありながら、彼女は自分の心のうちに全てを
読み取ろうと努力し、善きことも悪しきことも全てを体験し、それら
に対して価値判断を与えず、ただひたすらに耐えた。しかもこのよう
に平明に、精緻に、それらを記述した人は、人間の歴史上、彼女を措
いて見当らない。その記述は比類のないもののように思われる。
13 私が、この状態にありました時、主はみ心のままに、幾たびか次の幻視を私に賜いました。私は自分のそばに、左のほうに、からだの形を持った一位の天使を見ました。私が天使をこのように見るのはたいへん珍しいことです。彼らは、たびたび現われますが、私は、前の幻視のところで初めに、お話した時のあの様式でしか彼らを見ません。ところが、この幻視において、主は天使をこういう形で私に示すことをお欲(のぞ)みになりました。彼は大きくはなく、むしろ小さかったのですが、たいへん美しく見えました。彼の顔はあまりにも燃えるようでしたので、愛に燃える天使らのなかでも、最も高位のもののように見えました。彼らはたぶんケルビンと呼ばれる者でありましょうが、自分の名前を私に申しません。しかし天国には、ある天使とほかの天使、この天使とあの天使との間に、あまりにも大きな相違があることがよくわかりますので、私はそれをどう言ってよいかわかりません。さて、私は金の長い矢を手にした天使を見ました。その矢の先に少し火がついていたように思われます。彼は、時々それを私の心臓を通して臓腑にまで刺しこみました、そして矢をぬく時、いっしょに私の臓腑も持ち去ったかのようで、私を神の大いなる愛にすっかり燃え上らせて行きました。痛みは激しくて、先に申しましたあのうめき声を私に発しさせました。しかし、この苦しみのもたらす快さはあまりにも強度なので、霊魂は、もうこの苦しみが終わることも欲(のぞ)まなければ、神以下のもので満足することも欲しません。これは肉体的な苦しみではありません。霊的のものです。とはいえ、肉体もいくぶん、時には相当多くさえ、これにあずかります。これは神と霊魂との間のきわめて快い愛の交換で、私は、私の言葉に信をおかぬ人々に、このお恵みを味わわせてくださるよう、主の御憐れみに切願しております。 (自29-13)
14 このお恵みが続いた幾日か、私はほとんど無我夢中のようになっていました。私は何も見ず、何も聞かず、ただ私の苦悩を味わっていたいと思いました。なぜなら、それは私にとって、この世のあらゆる光栄にまさる光栄でしたから。…… (自29-14)
画像: ベルニーニ
「恍惚の聖テレサ」
サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会、
ローマ
ミシュラン・グリーンガイド『イタリア』
実業之日本社、1998
様々な写真を比較したが、
小さいながらも
この画像が
オリジナルの雰囲気を
最大限に再現している。
画題:Koloman Moser (1868-1918)
"Ange" hardboard study
window panel for door of Steinhof church, Vienna
1904-1905
Musée d'Orsay, Paris
Michel Laclotte
"Paintings in the Musée d'Orsay"
Editions Scala 1986