解決すべきは、正、反、合の合、つまり弁証法なのだが、弁証法は
「反」の論理を確立させないと成立しない。テレサにはカトリックの
教義上、反の論理は与えられていないので、この「合」、つまり妥協
の道には論理上永遠に到達できない。この状態を続けると身心共に疲
労困憊状態に陥る……と彼女はこぼす。
かといって、正反を対立させ、闘争させつづけると、次の通りとな
る。
私が話している熱情は、これとまったく違います。私たち
は自分でそこに「まき(薪)」を投げいれません。すでにも
う火はすっかりおきています。そして私たちは、そこに突然
ほうりこまれ、焼かれます。霊魂もまた神の不在がもたらす
かの痛手 を苦しむために何も協力いたしませんが、時折 、
肺腑の中心にはいって心臓を貫く一つの矢を刺しこまれます。
その時、霊魂はもう自分がどうしたいのかも、何を欲するの
かもわかりません。……しかし、この苦しみはあまりにも甘
味で、地上のすべての快楽よりも多くの満足をもたらします。
……
(自29-10)
読者は気づかれることだろう。テレサは心臓に矢が射込まれて苦痛
に呻くが、やがてその苦痛は快楽へと変わる。この現象は、もうすで
に彼女の精神状況が快苦の逆転現象、現代用語で言うならば、マゾヒ
スティック・エクスタシーに陥っていることを示している。 そして、
この状態が昂じて、ベルニーニによって刻まれ、有名になった例の場
面、「聖テレジアのエクスタシー」となる。
さて、テレサに戻ろう。
この相矛盾する二つの価値を抱え、その統合を目指したテレサは、その企てに失敗したように見える。彼女には絶え間なく幻覚と幻視が現われ、悪魔が身辺に出没し、周囲の人たちはテレサに悪魔が取り憑いたと噂する。だが、悪魔を自分の正体の半分だとすでに認めていたテレサはちっともへこたれない。
次に引くのは、彼女の魂の分裂状態を如実に示す最終場面である。
「和し難い矛盾、その絶えざる闘争」のあいだ、自己のなかの矛盾を「げんこずくで」喧嘩させない場合にはどうなるか。テレサは述べる。
俗に言う「げんこずくで」しないようにしましょう。霊魂はこの愛をおのが内部におさめますように。そしてやたらに「まき(薪)」を火に投げこんだためにひどく煮えたって、すっかり外にこぼれてしまうお鍋のようになりませんように。この火を燃やした原因を制御し、苦しくないおだやかな涙で、その炎を和らげなければなりません。こういう激情が流させる涙は苦しくて、非常な害を及ぼします。初めのころ、私も時々こういう涙を流しましたが、そのために頭は馬鹿になってしまい、精神は疲れ果て、翌日も、またそれに続くなん日間も、念祷にもどることは不可能でした。 (自29-9)
画題:Gustave Moreau (1826-1898)
"Orphée"
オルフェウスの首を抱く
トラキアの娘
1866 Salon
Musée d'Orsay, Paris
エブロス河の流れによって
トラキアの岸辺に運ばれた
オルフェウスと
その竪琴を
うやうやしく運ぶ若き娘
Michel Laclotte
"Paintings in the Musee d'Orsay"
Editions Scala 1986
モローが描くのは、
ギリシャ神話ではなくて、
「神秘」の意味合い。