(注9)
(宝永74月末、正受は白隠に自分の見解を率直に話し、照合を行う)

 明らかに宗覚が正受の死後に書き記したとおもわれる本、正受恵端の『垂語』から引用しよう。市原豊太、日本の禅語録十五『無難・正受』講談社からの抜粋である。

 

 師即ち合掌して曰く、無相自性の戒体、祖庭心授の秘訣を、或いは一大事因縁と名づけ、又は正方眼蔵と謂ふ。祖祖相承し、今に到って断絶せること無し。ただ当人の純工功積り、実参力尽き、最後放身捨命の一刹那に在るのみ。迷へば則ち円頓無作純真の戒体を全うしながら、五濁充満雑業の穢土(えど)を為し、会()すれば則ち五濁充満雑業の穢土を全うしながら、円頓無作純真の戒体と為(な)り、一切処に純工間欠無きを、之を名づけて真正持戒の仏子と為す。毫釐も繋念せば、之を名づけて波羅夷(はらい)と為す。只険崖に手を撒し、絶後に再び蘇らんことを要す。

 正念工夫を積み重ね、そこで力が尽きる時、身体を投げ、命を捨てる時が必ず来る。これが正念場である。ここで迷えば、すなわち躊躇するならば、一巻の終りである。ここで迷うことがなく、突き進めば、真正の真理に到達することができる。崖際に追い詰められたと理解する時は、いったん手を放せ、死んだと思った瞬間に貴方は蘇っている。昔からいうだろう。百尺竿頭に一歩を進む。伝灯録にいう。


   百丈竿頭須進歩 十方世界是全身

            (『景徳伝灯録』巻十、長沙景岑禅師)


 これだ。これでいいな、……と正受は白隠に念を押す。白隠は「うん、そうだ」と答え、ここに両者の心は完全に照合しあった。

 こうして、正受もにっこりした。

一 瞬 の 覚 醒 − 価 値 の 転 換

(注8)
(宝永74月末、白隠が町人に箒でぶたれる)

『壁生草』・『遠羅天釜』・『正受道鏡慧端菴主行録』の内容を纏めて、中村博二は『正受老人とその周辺』のなかで次のように記述した。

憂うつのまま、翌朝城下に出て托鉢した。しかし、思うところは公案だけである。ある家の門前に立ち止まっていたところ、中から声がかかった。
「お通り」。
しかし白隠の耳には入らない。相変らず立ち止まっていると、その家の亭主が目を怒らせ箒をさかさに握って白隠の頭を割り砕けるほどに乱打した。笠は破れ、どっと倒れて気を失ってしまった。
「また例の曲者がこんな事を仕出かした」。
 近所の人々はみな驚き恐れ、門戸を閉じて黙り込んでしまった。通りかかった三、四人の旅人が驚き怪しみ抱え起してたずねた。
「どうした、どうした」。
 白隠が蘇生して目をあけたところ、「南泉遷化」をはじめ、その他の今まで手をつけられなかった難透の公案が、たちまち、根に透り底に徹してわかってしまった。白隠は手を拍って呵呵大笑した。旅人たちは、
「恐ろしい狂人坊主だ」。
と言って皆遁走してしまった。
 白隠は立ちあがって、衣の塵を払い笠を被(かぶ)り、ニコニコして静かに楢沢へ帰って行った。そのとき一人の老人が白隠を呼び止めて言った。
「坊さまはさっき死になさったのかい」。
 白隠は微笑するだけで答えない。しかし、その老人は白隠に飯を供養してくれた。
 白隠は喜び笑いながら正受菴の門口までくると、正受は縁先に立っていて一見して問うた。
「どんなよい事があったか言ってみよ」。
 白隠は正受の前へ進み出て精しく所見を述べた。正受は団扇(うちわ)を取り白隠の背を撫でて、言った。
「貴公(きみ)は自分のような年齢(とし)になっても、必ずきっと、小を得て足れりとしてはいけない。これからつとめて悟後の修行をせよ」。

 白隠が書き残した書物のなかで、明らかに白隠が事の道理を悟ったと解釈できる箇所は上記の部分だけである。これ以外に該当する箇所は見当らない。

 事の道理を悟る瞬間の特徴は、

  −カラカラと乾いた声で笑い出す。
  −周囲の人は彼のことを狂人だと感じる。
  −本人はそれで結構、痛痒を感じない。
  −そして、ニコニコする。

であるから、明らかにこのときがその瞬間だと読みとれる。

 正受は彼の所見を聞くや、直ちにこれを「悟り」と認定して、「悟後の修行をせよ」と命令した事実がこれを裏付ける。

画題:法橋光琳
      『躑躅(つつじ)図』重文 
      絹本著色 掛幅

   東京 畠山家
   山根有三
      『原色日本の美術第十四巻 
                    宗達と光琳』
      小学館 
1969

   清流に臨んだ岩かげに
      妖しくもあざやかに咲きいでた
      躑躅の紅白の花。
      小品中の傑作。
      “道崇”の大きくてあざやかな朱文円印、
      あたかも絵の一部。
      (山根有三)