これらを読み合わせると、正受が白隠を見送ったのは、どうも街はずれまでだったらしい。正受が白隠に飯山に残れと言ったのは事実だったようだ。いや、宗覚がいるじゃありませんか、と丁寧に断ったのも事実と思われる。別れるときに本当に白隠が泣いて平伏したのかどうかは怪しい。フィクションが大好きな白隠にも困ったものだ。

 まあしかし、これで若干のちぐはぐはあるというものの、白隠の青年期の人格形成についてはまず纏まった。大筋は読めた、と思っていたら、次のような記述が見つかった。

白 隠、正 受 と の 別 れ

(注13)
(白隠が正受と別れて原宿へ帰る)


『壁生草』の該当部分を中村博二の翻訳で読もう。


 正受もまた見送ってきた。一、二里で高山の麓まで来た。これからは山路が険しく老人には歩けないところである。皆が正受にすすめて別れることとなった。正受が帰る時、白隠の手をとり、低い声で親しく告げた。
「今後勤めて、お前のような者を二人接化しなさい。そうすれば、仏祖の深恩に報ゆるに足りる。ここを去って、たとい老師の病床に随侍しても、小を以て足れりとしてはいけない。勤めて、必ず悟後の修行に専念せよ。世間一切の塵縁の事は棄て去って、少しでも心にかけてはいけない。時節が来たら再度わが草庵を訪れよ。」
 白隠は地上に平伏礼拝して、泣いて別れ、険しい山路に入った。

『正受老人集』によれば、


 白隠暇乞して庵を去り発足し、見送して恵端町先迄送る。其時恵端申す様は、其方(そのほう)如き弟子最()一人ほしき也といひながら、手をしっかと握る。白隠、宗覚ありといふ。互にニッコと笑乍(わらいながら)別れ、白隠武州をさして急ぎゆく。

とある。また、妙喜宗績(みょうきそうせき)の『龍門夜話』によれば、


 鵠林、正受を辞する時、老人曰く、汝向後来りて此の庵に住せよ。林曰く、格首座の在る有り。某甲(それがし)、何ぞ敢てせん。老人曰く、彼は養うことを知らず。如何ぞ寿を得んと。

とある。鵠林とは白隠のこと、老人とは正受老人のこと、格首座とは宗覚のことである。

 白隠が59歳のときに著した『息耕録開筵普説』の部分解説を中村博二にお願いしよう。


 わしは昔、正受老人に質問され答えるようにせまられたが、答えることが出来ず、痛棒をくらった末に、答えるには答えたが、まだ徹底していなかった。船の上から遠くの岸にある樹を眺めているようなものであった。
………
 後に松蔭寺住職となり、丁度四十二歳になった頃、ひとり灯火のもとで再び法華経を読んだ。そして第三譬喩品まで読んで来て、今までの疑惑が急にすっかりわかってしまった。法華経が経典の王様である理由が目前にキラキラとはっきりした。涙が次から次へと流れ出て止まるところを知らなかった。豆袋に穴があいて豆がボロボロと漏れ出るような有様であった。覚えず声をあげて泣いた。今まで悟ったと思っていた、釈迦や祖師の多くの語録や行履の理解も結局は大変あやまっていることがわかった。ここで初めて正受老人の日常生活の境涯が底までわかった。また、さとりきった釈迦の説法は、何ものにもとらわれない自由自在なものであることがはっきりわかった。臨済は師の黄檗に平手打ちをくらわせたが、わしはわが師正受老人に三十棒をくらわせてやりたい。


 あれだけ正受老人に教えて貰ったのに、大きいことばかり言っていながら、しかも白隠は、どうやら
42歳まで物事の道理がわからなかったもののように見える。

 つまり、宝永7年春、白隠が正受老人から受けて理解したコツは、とりあえず自分の神経衰弱を治すための秘訣に限定されていたのであり、その当時正受老人が白隠に話した禅の極意は、白隠の耳を右から左へと素通りしていた。正受老人の話した禅の極意は、なんとそれから16年後にやっと白隠の頭のなかにもどってきた。

 これだから、坊主というのは注意しなければならない。

 坊主というのは半分嘘を言うものだとは聞いていたが、坊主が自分で自分を嘘つきだったと告白しているのだから間違いはない。

 これからは、坊主が私を極楽に連れて行ってくれる、と言っても決して信用しないよう、まず眉に唾をつけて疑ってかからねばならない。

 それにしても、地獄と極楽と、当選確率は50%なのであるから、彼らが半分嘘をつくという下馬評は、確率論的には案外正しいのかもしれない。

 

 ちなみに、白隠がやっと物事の道理が分ったのが、享保11年、西暦1726年のことであって、正受はその5年前に亡くなっていた。享年80歳であった。

 白隠の最終的な心境は、白隠禅師『坐禅和讃』に漏れなく表現されている。ご参考までに次に記載しておこう。

画題:円山応挙(1733~95)
      『岩頭飛雁図
         (
がんとうひがんず)』1767
      紙本著色

   滋賀 円満院
   吉沢 忠
      『原色日本の美術第十八巻 
                    南画と写生画』
      小学館
1969

   名前を応挙と改めたのが明和三年、
      翌年四年にこの写生画が描かれた。

   この絵は白隠が満83歳で亡くなる
      一年前に応挙によって描かれた。

       かといって白隠と応挙とはなんの関係も
       ないのだが。