これらの彫刻のうち、上段の山東三像はいずれも石灰石に彩色し、
金箔を置いたものであり、下段の
アショカ王像も石像で彩色の上から
金箔を置いてある。

 たったこれだけしかないのである。

 このほかに実物は残っていないが、金箔を使っていたと想定できる
のは、

510年頃?           平等寺に金の仏像が一体       『洛陽伽藍記』楊衒之
熙平元年(516)      永寧寺                                 洛陽伽藍記
                            黄金の仏像三十二体
                            一丈八尺の金の仏像一体
                            等身大の金の仏像十体
                            金糸で織り上げた仏像五体

くらいであろう。

 注意すべきは北魏・洛陽の国家大寺であった永寧寺に「金糸を使っ
た仏像五体」があったという記述である。金糸というものは金箔を紙
に貼り、その紙を巻いてつくるのが一般的であるから、私たちは北魏
・洛陽の時代に金箔は存在した、と断言できるような気がする。

 なお、実物は残っていないが、東晋の道安が寧康四年
(366)、襄州檀渓寺に仏像を彫造・鋳造した。丈六の釈迦像
は鍍金され、

   「毎夕光を放ちて堂殿像後を照らした」と伝えている。
    慧遠はこの仏像の鋳造をたたえて「晋襄陽丈六金像頌並
    序」を書いたのであった。(『広弘明集』巻十五)

『中国仏教史』第一巻 初伝期の仏教 鎌田茂雄 東京大学出版会 1982 P372

 つまりこの金銅仏が、製造年が確認できるという条件つき
で、世界で二番目に古いものであり、日本に存在する中国の
金銅仏のなかでは最古なのである。

 上図では画像の数が限定されているが、北魏の第二期(440-494)以降は金銅仏の数は爆発的な速度で増えている。

 各画像の解説は別項で行う。

              中国の仏像(1)
              中国の仏像(2)

 上記の画像はとくに重要な仏像を選んだのだが、実はほかにもう一つ大事な金銅仏が日本にはある。これをご紹介しておこう。

金 銅 仏 の 出 現

 なお、外国製の金箔を使用した、と特記する仏像についての記述は下記を
参照せよ。

1. この金像以外にも道安の檀渓寺には種々の仏像が置かれた。前秦王苻堅
  は使を遣わして、外国の金箔の高さ七尺の倚像と、金の坐像、結珠の弥
  勒像、金縷の繍像、織成の像それぞれ一つずつ送ったのである。そこで道
  安は法会のたびごとに、これらの尊像を羅列して、幢幡をこのそばに立て
  た。仏像の金色が燦然と輝き、人々は参拝するために仏殿に昇り小門に至
  ると、おのずから頭を垂れざるを得ないように荘厳を尽くしていたのであ
  った。

       『中国仏教史』第一巻 初伝期の仏教 鎌田茂雄 東京大学出版会
 
                                                                                      1982 P372

            (時期は東晋の寧康中、西暦373-375。出典は『広弘明集』巻十五)

2. 『名僧伝』第二十六僧表伝、北涼末期(西暦438年頃?)僧表は、

        于闐王から与えられた仏鉢と摩伽羅国の宝勝像を模して造った
      薄
像を手にして涼州へ帰った。

       『中国仏教史』第三巻 初伝期の仏教 鎌田茂雄 東京大学出版会
                                                      
1982 P51

中国における金箔の初め

 そういうわけで、仏像の実物、あるいは仏像に関する記述から、中
国の金箔の使用の開始をつきとめる試みはほとんど徒労に終わってし
まうようだ。また、日本の正倉院文書のように製造方法が読み取れる
資料もどうやら存在しないように思える。

 碩学が提供してくださる今後の資料に俟つ以外手段がない。

 いままでの収集した資料によれば、「多分、510年ごろには金箔は
存在していた」と推定できる程度である。

 とても東晋まで遡っていくに足る資料は見当たらない。

金箔を使った仏像

 上記の古仏のなかで金箔が使われているのは、たった一例だけで 

            
杜僧逸阿育王像(とそういつあいくおうぞう)
             梁 「太清五年(551)」銘

であった。

 ではそのほかに金箔を使った古い仏像が残されていないのだろ
うか。

 実例は極めて少ない。
 先に引用した
              『中国・山東省の仏像―飛鳥仏の面影―』
             
MIHO MUSEUM 友の会 2007
のなかで紹介されている数点のみであるように思われる。

 例によって年表を使って説明しよう。

年表は『敦煌の石窟芸術』潘絜茲 著 土井淑子訳 
中公新書
589 中央公論社 1980
P21から借用することにする。

画像:

171

金銅 仏坐像

夏・勝光2(429) H19.0

Seated Buddha, gilt bronze

Dated 429

『大阪市立美術館蔵品選集』

大阪市立美術館 1986

説明:同書より

 通肩の衣を着け、大きい肉髻があり、手を腹前で重ねた
仏坐像と方趺の台座が一鋳で造られるのは、「古式金銅仏」
がみせる形態的特徴の一つである。本像は、その古式金銅
仏がさらに下の大きな四脚の台座と一鋳で造られている。
銘は「勝光二年己巳春正月朔日中書舎人施文為合家平安造
像一区」(四脚の左側面から裏)と太字で刻される。勝光
は五胡十六国時代の夏の年号で、現存する中国の紀年金銅

仏の中では後趙建武(338)に次いで古い。
(山口コレクション)