説明:
『世界美術大全集』から

P262

 本像は、1995年に成都市西安路から出土した斉・永明8
(490)銘石造三尊像をはじめとする8件の仏教造像、1
の道教造像のうちの一体である。西安路は万仏寺(ばんぶ
つじ)石仏群が出土した地点にもほど近く、
5世紀から6
世紀にかけてこの一帯に造寺造仏活動が集中していたこと
がうかがえる。

 頭光(ずこう)から本体、台座まで一つの石を用い、頭
光背面の供養者像浮彫りや左肩後方に懸けた袈裟の端まで、
丸彫りで丹念に仕上げている。肉髻の髪は左右にカールし、
その下の髪は瘤状に盛り上がって螺髪をかたどり、鼻先を
尖らせてその下に髭(ひげ)を刻み、袈裟を通肩(つうけ
ん)につけて蓮華座に立つ如来像である。着衣表面の彩色
は失われたものの、紅砂岩のやわらかな赤色に対して、顔
や足の肉身部、頭光の化仏(けぶつ)などの金箔がよく映
えている。左手に懸かった衣が幅広く平行線を描いている
点や、左肘(ひじ)の下を深く彫りくぼめて腰の屈曲を強
調するなど、各所にこの時期のふつうの如来立像には見ら
れない表現が現われている。背面下方に刻まれた銘文に
「敬いて育王像を造る」とある。その異形ともいえる像容
と銘文から、本像が「阿育王像」と呼ばれる瑞像(ずいぞ
う)の一つであることがわかる。

 阿育王(アショカ王、在位前268~232頃)はインド・
マウリア王朝の王で、深く仏教に帰依し、法によって国を
治めることを宣揚する摩崖(まがい)法勅や記念の石柱を
国内の各地に造らせた。阿育王が、仏滅後に造られた八つ
の塔のうち七つから舎利を取り出して分納し、八万四千の
塔を造らせたという伝説はよく知られている。梁時代には
来朝僧僧伽婆羅(そうぎゃばら)が『阿育王経』を訳出し、
武帝による阿育王塔の建立などもあって、阿育王の釈迦信
仰はその名を冠した瑞像の信仰となって広まった。ガンダ
ーラからやってきた禅師僧伽難陀が江陵(こうりょう)
(湖北省)の長沙(ちょうさ)寺に入り、そこに安置され
ていた仏像の光背に記された梵字を見てこれは阿育王像で
あるといったことや、揚州(ようしゅう)の長干寺に阿育
王の第
4女が造ったという天竺伝来の仏像があったことな
どが諸文献に見られる。

 ・・・・・・・・・・

 なお本像には太清5年の年記が刻まれている。梁の太清
という年号は
547年に始まるが、第3(549)に武帝が非業
の死を遂げ、翌
550年には簡文(かんぶん)帝によって大
宝と改元されている。ちなみに万仏寺址出土石仏のなかに、
中大同
3(548)銘観音立像および諸眷属像(挿図247)が
あるが、この年はすでに太清
2年である・侯景(こうけい)
の乱
(548~551)によって都建康(けんこう)が壊滅的状態に
陥った梁は、すでに四分五裂となり、都を遠く離れた四川
の地では古い年号がそのまま使われることがあったのであ
ろう。(岡田 健)

画像:
248
杜僧逸阿育王像(とそういつあいくおうぞう)
梁 「太清五年(551)」銘
四川省成都市西安路出土
石造 高48.5cm
四川省、成都市文物考古研究所
『世界美術大全集』三国・南北朝 東洋編3
曽布川 寛、 岡田 健
小学館 2000

長安や洛陽を核とした中央地域よりも北方の地域で盛行した造像。

画像:
262
如来坐像
五胡十六国(5世紀)
河北省石家荘市出土
銅造鍍金 高17.6cm
石家荘市、河北省博物館
『世界美術大全集』三国・南北朝 東洋編3
曽布川 寛、 岡田 健
小学館 2000

画像:

画像:

171

金銅 仏坐像

夏・勝光2(429) H19.0

Seated Buddha, gilt bronze

Dated 429

『大阪市立美術館蔵品選集』

大阪市立美術館

1986




説明:

『中国の仏教美術』水野清一 平凡社 昭和43年 P61

大夏勝光二年金銅仏坐像

 紀年のある最古の仏像を後趙石虎の建武四年(338)とすれ
ば(原色版一、第六図)、これは第二の古い仏像である。

前者が仏図澄に代表される河北の仏教を反映しているとし
たら、これは鳩摩羅什(クマラジーヴァ)に代表される長
安仏教の所産である。すると、最初の敦煌諸石窟は、曇無
讖(ダルマラクシア)など涼州仏教を反映するものかも知
れない。とにかく、その三者間のちがいを云々するには、
まだすこし材料がすくなすぎるとおもう。しかし、そうい
う可能性を存する資料である。

画像:
259
如来および眷属像
北魏 正光5(524)
伝 河北省石家荘市正定県将来
銅造鍍金 高76.9cm
ニューヨーク、メトロポリタン美術館
『世界美術大全集』三国・南北朝 東洋編3
曽布川 寛、 岡田 健
小学館 2000

中 国 の 仏 像 (2)

説明:
『世界美術大全集』から

光背、台座、中尊如来立像、さらに脇侍菩薩像、金剛力士
像、獅子、供養者、菩薩思惟半跏像、香炉などをすべて別
々に鋳造して造り、一つに組み上げた作例で、本像は同類
のもののなかでもとくに豪華な内容をもつものとして知ら
れている。
1924年に河北省正定県郊外で出土したと伝えら
れている。台座背面に刻まれた銘文によって像の発願者は
「新市県」、現在の河北省新楽市西南の出身であったと推
測されている。

 中尊像は銘文によれば弥勒像であるとされる。袈裟の胸
を大きく開けて内衣の結紐(むすびひも)を大きく外へ垂
らすという、北魏時代末期の如来立像一般の形態で、尊格
を区別する特徴を有するわけではないが、
520年代には金
銅仏、石彫仏いずれにもこの形態の弥勒像が多数知られて
いる。

 台座前面の中央に取り付けられた香炉は、下から地天
(じてん)が両手で盤を捧げ持ち、盤の左右に蓮華が生じ
てそれぞれ化仏(けぶつ)を載せている。その他の部品は
いずれも左右対称の位置に取り付けられている。光背の周
囲に取り付けられた合計
11体の飛天(うち1体が欠失)が
天衣を大きく翻らせて上昇感を強め、多数の眷属によって
やや混雑している全体の構成に適度の動きを与えている。
なおメトロポリタン美術館には、本像と同時に出土したと
されるもう一組の銅造如来諸眷属像がある。(岡田 健)