世 界 の 真 実 は 闇

画題:
   フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ

    「運命」1821/23年ごろ
     壁画よりキャンバスに移す。
   
123 X 266cm
    『プラド美術館』
     Scala Books
     Scala Publications Ltd. 1988

     華やかな宮廷生活は錯覚だった。
     世界は闇で救いは来ない。
     堪えることには実がない。
     私は囚われ人で
     その先には死が待っている。
     これが紛うことなき真実なのだ

 典型的な日本人の発想は、「恐るべき神」の容認ではなく、「最後
のひとふんばり」である。別項で説明する島精機製作所社長島正博
思い出話、さらに
kuukaさんの詩「勇気」と「稀有」を参照願いたい。
日本人の極限的発想は「最後の一押し」である。「あきらめずに頑張
れ」、である。


マルティン・ルターとムハンマドは、それとは正反対で、「世界の
真実は闇」であり、そこでは「いささかの希望も存在しない」し、神
の前では「私は永遠の奴隷」である。この真実を悟ることができたら、
その後の生活は「神にたいする絶対服従」と、「神にたいする敬虔
な信仰」ということになる。


 これが神秘体験B体験者の実態である。

 ところで、ドイツと日本の哲学者は、神秘体験Bの状況、なら
びにそのときの恐怖感を、「実存的な恐怖」と表現する。

 従って、井筒俊彦もムハンマドの宗教体験にたいして「実存的
な恐怖」という述語を使うが、「実存」は前提として、神秘体験

Aの絶対的存在を認めたうえでの議論であるから、ムハンマドの
場合に「実存的な恐怖」という述語を使うのは正しくない。ムハ
ンマドは「
Aなど存在しない」と主張しているからである。

  実存とは、現実の存在、ということ。プラトン以降カント、ヘ
ーゲルにいたるまで、西洋哲学のコアは明るい、喜ばしい世界、
即ち神秘体験
Aであるとしたが、その範疇をこえる精神的な恐怖
体験を、「本質が理解できない」まま、「神秘体験
Aの概念では
説明がつかない」、いわば「枠外の認識」としてとらえるのであ
る。
Aは理解できるが、Bはその本質が理解できない。しかし現
在する恐怖だから、「実存的恐怖」であるとする。

ドイツ人でABとの融合に過不足なく成功した哲学者はいな
い。 ハイデガーは
Aに逆戻りして、第二次大戦の精神的基盤を
構築することとなった。 
A onlyの絶対論がナチズムの基礎を作
ったのだ。

写真:

現代における地獄の一例。

ベルゲン-ベルゼン強制収容所(1945/5)
(アンネ・フランクが死んだ収容所)
これも私たちと同じ人間の仕業だろうか?

同じユダヤ人(写真左側・着服男性)に死体を運ばせ、その後に射殺した様子が想像できる
(C)A photo from United States Holocaust Memorial Museum Web-site

http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/musicandauschwitz/auschwitz/campfotos.htm