「恐るべき神」への道程

画題:

   フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ

   「サン・イシドロへの巡礼」
     1821/23年ごろ
   壁画よりキャンバスに移す。
     146 X 438cm
   『プラド美術館』
     Scala Books
     Scala Publications Ltd. 1988


     ゴヤの宮廷時代の時代背景については
   次を参照せよ。
   
『名画による歴史探訪
      −ヨーロッパの文化と社会』
   Rose-Marie Hagenほか、新井皓士訳、
   岩波書店1996

     

人間は深い瞑想に入ったときに、生命感の高揚した歓喜の感情に到達するこ
ともあり、反対に、恐怖の坩堝ともいうべき閉鎖空間に落ち込むこともある。
ムハンマドの場合は、生命感の高揚した歓喜の感情に到達には到達せず、初め
から恐怖の坩堝ともいうべき閉鎖空間に落ち込んだ。

このような状況にある人間の客観的な症状は次のとおりである。

1. 疲れきっている、と自分では感じる。これ以上なにをする精気も残って
 いない、と感じる。

2. 世界は自分から離れた遠くにあり、ものを触るときの触感も現実感がな
 い。私には生きるべき梃子がない、と感じる。

3. 毎日食事し、就寝しているにもかかわらず、一日一日の現実感が消えて
  いる。

4. とにかく死にたい、と感じる。

5. 周囲の人たちには、これらの感情を隠そうとする。話しても理解しても
 らえないことが確実であるからだ。

6. 孤独感が自分を締め付ける。

7. にもかかわらず、私の道はこれしかない、これが私の真実である、とい
 う確信に近いものがある。

8. 逃げようとしてもがくこともあり、欲望に身を任せよう、という欲望が
 きつくなることもある。

9. あの世の具合はいったいどうなっているのか、自分の身体はどうなるの
 か、ひたすら考え続ける。

以上について詳しくは、後述するゲーテの『若きウェルテルの悩み』
ならびに芥川龍之介の『或る阿呆の一生』を参照してください。

このような極限状態をつづけると、ムハンマドが記述する「暗黒の穴
倉」が、ある日見えてしまうのだ。当人の受け止め方からすれば、「穴
の底に苦痛とともに落ち込む」のである。

このような「落ち込んだ」人たちにとって逃げ場はもはや一切無い。
自らの行動の自由度も失われてしまう。将来にたいする一切の希望は
消える。

自分は打ち砕かれ、打ちのめされ、ガラスの破片が周囲に囲繞する。
無機物の世界への帰還である。

私からは、一切の精気が抜き取られる。どのような自由度も存在しな
いので、私は奴隷である、と感じる。極端な恐怖感がともなうから、震
えおののく。

このような状況がマルティン・ルターとムハンマドに共通する症状であ
る。しかし、ルターとムハンマドには、ゲーテと芥川たちとのあいだに画
然とした差がある。ゲーテと芥川は底に落ち込んだことを自覚していない。
だから必死になって脱出せんと試みる。マルティン・ルターとムハンマド
は地獄の底(神秘体験B)におちこんだことを自覚している。そしてこの地
獄の底こそが唯一の真実である、と認識する。こうして開き直り、自覚し
たうえで、地獄の底からの報告を行っているのである。彼らははっきり宣
言する。逃げる場所はないから、従って「自分は奴隷である」と。そして、
この心理現象が生じたことを秘教の「神」の仕業、御業であると理解する。
また、あまりにも強烈な恐怖感がともなっているものだから、「神」につ
いての描写を控える。「神」を表現することをしない。ひたすらにその御
前にひれ伏す「恐るべき神」なのである。偶像は描こうとしても描くこと
ができない。


このような「おそるべき神」は日本には存在しない。だから、日本人は
旧約の精神世界は言うに及ばず、イスラムへの理解とか、プロテスタント
にたいする理解が決定的にかけている。