閑 話 休 題 − 島 正 博
写真:
The
Hermitage
Saddle Cover
Eastern Altai, Pazyryk Burial Mound 1
Felt, leather, horsehair
5th century BC
L 119 cm, w 60 cm
話は『若きウェルテル』とは離れるが、平成5年3月17日の日本経済新聞
は、島精機製作所社長島正博の心を「創業のころ」と題して次のように伝
える。
開発には膨大な資金がかかった。資本金は百万円の会社だった
が、六九年時点で六千万円の借金を抱え、三千万円の赤字を計上
していた。会社の売り上げは全部、自動編み機の開発につぎ込ん
でいる状態だった。次々に期日がくる手形を落とすため、家の中
にあるものなら子供のお年玉まで持ち出した。
現在の仮谷志良・和歌山県知事が、当時県の経済部長をしてい
た。製品の将来性を見込んでくれ、赤字続きだったので企業診断
の専門家をつけてくれたうえで、さまざまな県の制度融資を世話
してくれた。六千万円のうち一千万円は江商(現在の兼松)から
の借り入れだったが、繊維機械の業界が保証をしてくれるなど、
大勢の人の支援を受けた。
やっと製品開発のめどが立った六九年の十二月二十五日、期日
が来た六十万円の手形を落とすお金がなかった。どうしようもな
く、当時の専務と自殺することも考えた。そこへ、企業診断の専
門家から話を聞いた大阪の上石谷金属という会社の社長が百万円
を出してくれた。その資金で手形を落とすことができ、残りの四
十万円は当時二十人ほどいた従業員に年越し資金として支払うこ
とができた。
年が明けてから自動手袋編み機が完成。最初の一年で六百台と
爆発的に売れた。借金はこの一年でほとんど返済した。その後、
自動手袋編み機をピーク時には年間約五千台販売し、世界で70%
強のシェアを握るまでに成長したが、創業時にこうした温かい支
援をしてくれる人に恵まれたお陰だと思う。
島正博社長は、昭和44年12月25日、手形を落とすお金がなくなって、当時
の専務とともに自殺することを考えたのである。
当時の島氏は自動手袋編み機の完成に心血を注いでいた。製品開発のめど
が立っていたのに、暮れも押し迫った12月25日、資金繰りが回らなくなり
(閉鎖空間に追い込まれ)、そして突然自殺の心が湧きあがる。
人間の心というものは、一生懸命、心血を注いで努力に努力を重ねた挙句、
到達する境地が「死と隣り合わせ」なのである。
島社長の場合、事態の解決は簡単である。負債を抱えた会社を倒産させる
ことでもよい。幾分ずるい解決法だが、夜逃げもうまい解決法である。論理
的必然性として、心血を注いで努力した結果、蹉跌に遭遇し、しからば自殺
する・・・・ということには断固ならない。
論理的な整合性はないものの、にもかかわらず私たちの心は島正博の想い
出話を読み、「さもありなん」と同意する。
なぜだろう。自らの心の潔癖性が、会社の倒産を認めないのが自殺の理由
であろうか。恩義を受けた債権者に対し申し開きができない苦しさから脱却
したいのが自殺の理由たり得るのか。しかし、開発の目途はすでに立ってい
るのである。
自動手袋編み機の完成を一途に目指し、努力した結果、あと一歩のところ
で挫折することが明らかとなった。そのとき、人間の心は自分が「死と隣り
合わせ」であることに気づき「死にたい」と願うのであろう。そう考えるほ
うが、周囲にたいする気兼ね論よりも正鵠を射ているような気がする。