聞こえてくる神々の笑ひ声

写真:

http://www.prana-art.co.jp/
magajin/melma/20.htm

或阿呆の一生 三十五、道化人形(だうけにんぎやう)


               彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつも
         りだった。が、不相変
(あひかはらず)養父母や伯母(を
         ば)に遠慮勝ちな生活を続けてゐた。それは
彼の生活に明
         暗の両面を造り出した。彼は洋服屋の店に道化人形(だう
         けにんぎ
やう)の立ってゐるのを見、どの位彼も道化人形
         に近いかと云ふことを考へたり
した。


 自分の心はとっくに死の領域に走りこんでいるのに、現実の世界で
はなにくわぬ顔でお芝居をする。心と身体が遊離してしまう。

 ウェルテルも1772.1.20.自分を「操り人形のように芝居をさせられて
いる」と告白している。

或阿呆の一生 四十八、死


               のみならず彼に彼女の持つていゐた青酸加里(せいさん
         かり)を一罎(ひとび
ん)渡し、「これさへあればお互い
         に力強いでせう」とも言つたりした。


               ・・・・彼はひとり籐椅子(とういす)に坐り、椎(し
         ひ)の若葉を眺めなが
ら、度々死の彼に与へる平和を考へ
              ずにはゐられなかつた。


 生きることは苦痛。死ねば苦痛から救われると考える龍之介。

或阿呆の一生 四十九、剥製(はくせい)の白鳥


               彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じ
         た。彼の前にあるものは
唯発狂か自殺かだけだった。彼
         は日の暮の往来(おうらい)をたつた一人歩きな
がら、
         徐(おもむ)ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心
         した。


 解決のつかない問題の場合は理性の喪失が一つの解なのだ。しか
し、それは自ら選択できるオプションではない。ウェルテルの最終
と酷似している。

画像:

Wheatfield with Crows, 1890, 50,5x100,5cm.
Amsterdam, Rijksmuseum Vincent van Gogh.

http://www.e-mpressionism.net/
vangogh/vangogh_en.html

或阿呆の一生 五十、俘


               彼はすっかり疲れ切った揚句(あげく)、ふとラディゲ
         の臨終の言葉を読み、も
う一度神々の笑ひ声を感じた。そ
         れは「神の兵卒たちは己(おれ)をつかまへに
来る」と云
         ふ言葉だった。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と闘はうとし
         た。しかし
どう云ふ闘ひも肉体的に彼には不可能だった。
         ・・・・彼は神を力にした中世紀に
人人に羨(うらやま)
         しさを感じた。しかし神を信ずることは――到底(たうて

              い)彼には出来なかつた。あのコクトオさえ信じた神を!


               (注)下線部分は原文では傍点。


 注目すべき第一点は、肉体的疲労の限界に龍之介が達していること。

 注目すべき第二点は、死が向こうから彼を?まえにやってくると龍之
介が感じはじめたこと。

 注目すべき第三点は、ゲーテと同じく龍之介も信仰には頼らず、自
らの理性で解決する道を選んだことである。