『ガリア戦記』- アクソナ河畔の戦い
ラ ン ス の 歴 史
ガリア戦争の二年目、紀元前57年、ベルガエでの最初の戦いは「アクソナ河畔の戦い」で、ローマ軍5万人、相手はガルバ王が率いるベルガエ人連合軍各種族併せて総勢30万人。場所は現在のランスから西北西に約15km離れたアクソナ河(現在名はエーヌ河)。緒戦はアクソナ河の西北約10kmにあったレミ族の植民市ビブラックスでレミ族が単独で戦い、その後アクソナ河でローマ軍との戦いが始まった。
注:
ジュリアス・シーザー (Julius Caesar)の時代のフランス地図は次である(Wikipedia)。シーザーがその当時ガリアと呼んでいたのは下図のうち、
BELGIGA
CELTICA
AQUITANIA
である。Belgicaは、境界線として南は(現在の)セーヌ河とマルヌ川を結んだ線を南限として、北は現在のベルギーとライン河を北限とする現在のオランダを包含する地域である。読み方はベルギカ。Gallia Belgicaと続けてガリア・ベルギカと呼び慣らす。
引用:Wikipedia: Reims
496年、サリ族フランク人の王クローヴィスがソワソンで(シアグリウスを破り)勝利した後、ランスの司教サン・レミが聖瓶の油を使用して彼に洗礼を授けた。その聖瓶は噂によれば、クローヴィスの洗礼のために鳩が天から運んできたもので、その後サン・レミ大修道院に保存された。クローヴィス1世の戴冠式におけるこの出来事は、その後何世紀もの間、この君主国が神聖な支配権を主張するための一つの象徴となった。
注1:ヴァンダル族
5世紀の民族大移動。青がヴァンダル族
引用:Wikipedia:Reims
キリスト教は260年までにこの街に定着した。この時代に、ランスの聖シクストゥスはランス司教区を設立した。この新しい信仰の影響力ある支持者であった執政官ジョヴィヌスは336年、シャンパーニュに攻め込んできたアラマンニ人(ドイツ南西部、ライン河上流地域)を撃退したが、406年にはヴァンダル族がこの街を獲得し注1、ニカシゥス司教を殺害した。そして451年、フン族のアッティラがランスに放火し注2、武力制圧した。
『ガリア戦記』の該当箇所を読んでみよう。
・・・・・騎兵戦はわが軍が優勢であったので、カエサルは部下を陣営内に引き戻した。敵はただちに移動してアクソナ川へ急いだ。それがわが軍の陣営の背後にあることは先述のとおりである。浅瀬を見つけると、敵は軍勢の一部を渡河させようとした。狙いは、可能なら、副司令官クイントウスーティトウリウスが指揮する砦を攻め取り、橋を切り落とす、それが無理でも、レーミー族がわが軍の戦争遂行にたいへん有用であるので、その農地を荒らし、わが軍への物資補給を阻むことにあった。
一〇 カエサルはティトウリウスから知らせを受けると、全騎兵と投石兵と弓兵からなるヌミディア人軽武装兵に橋を渡らせ、敵に向かって急行した。そこで激しい戦闘になった。わが軍は敵が川の中で足を取られているところに攻めかかって、多数を倒した。その遺体を越えて残りの敵がじつに果敢に渡河を試みたが、これも多数の矢玉で撃退した。先頭で渡河し終えていた敵も騎兵で包囲して討ち取った。敵は、城市攻略についても渡河についても望みが破れたことを悟り、わが軍が不利な場所へ進み出て戦うことがないと見て取る一方、自分たちの食糧が底を突いてきたため、会議を召集し、こう決定した。「各部族がそれぞれの故国に戻るのが最善策だ。ローマ軍が最初にどの部族の領地に進軍しても、その部族を防衛するために八方から集まろう。そうすれば、自国の領内だから他国の領内より戦いやすく、国内の穀物備蓄も利用できる」。このような考えに敵が至ったのには、他にも理由・・・・
(引用:『ガリア戦記』高橋宏幸訳 岩波書店 2015, P60)
目で見る参考画像:ベルガエでシーザーの使った攻城戦法
歴史
引用:Wikipedia, Reims
ローマによる北ガリアの征服前、西暦前80年にランスはDurocortōrumデユロコルトールム(ラテン語、円形要塞)の名前で設立され、レミ族の首都となっていた。従って、ランス(Reims)の名前はレミ(Remi)の名前が転じたものである。ジュリアス・シーザーのガリア征服(西暦前58-51年)の過程で、レミ族はローマと同盟し、種々のガリア反乱の間も忠誠をまもったので、デユロコルトールムはローマ帝国の権力から特別の愛顧を獲得した。ローマ時代の最盛期に、この街の人口は3-5万人、あるいは一説によれば10万人、であった。
なお、サン・レミの観光資源については私のレポート2014/05/18を参照乞う。
追加資料:
ランス博物館に収蔵されているローマ時代の遺物
ローマ支配下にあった時代(50 BC–486 AD)のガリアの遺跡
画像:聖霊の鳩が聖瓶をサン・レミに運んでくる。西フランダースのヤーコブ・ファン・マールランの写本「編年史」(1335-55年頃)から。
画像:会戦の場所はシャロン=アン=シャンパーニュ。
画像:406年12月31日、(ポーランド出自の)ヴァンダル族は凍結したライン川を渡り、ガリアに侵入した。ゴディギゼルの息子グンデリクイタリア語版王率いるヴァンダル族は、ガリアの西や南へ略奪して回った。409年10月、ピレネー山脈を越えてスペインに入った。
そののちのランスはどうなったか?
ベルガエ軍は激戦の末、右翼から渡河を試みたが、水中でローマ軍の騎兵と武装兵にたたかれ、ローマ軍の大勝に終った。
この戦いが現在のフランス国内でのローマ軍の第一戦となり、ローマ軍はこの年、ベルガエ内で連戦連勝して(7月、サビス川の戦い。9月ナミュールの戦い)現在のベルギー、ライン河以南のオランダを確保した。歴史に残るローマ軍の大勝利であった。
こういう経緯があったので、ローマ軍支配下のベルガエは首都をランス(当時の名前はDurocortōrum)におくことになり、ランスはこの地域の貴族が集まる大都会になった。
画像:『ガリア戦記』高橋宏幸訳 岩波書店 2015、P58
画像:『ガリア戦記』高橋宏幸訳 岩波書店 2015、P64
画像:Google Map, 2015より。Berry-au-Bacのエーヌ川橋より西方を撮す。
画像:Axona河畔の戦場地図。Google 2015、一部改変
画像:高橋宏幸訳『ガリア戦記』岩波書店 2015、P60
画像:Google 2015。 現在の地形とほとんど変わっていない。現在はエーヌ川に隣接してマルヌ運河が敷設されている。上の地図の赤点から西方にむかって撮した写真が左の写真。
つまり、ユリウス・シーザーが紀元前57年、ガリア征伐に来たときにはこの街は成立していた。住人はレミ族で、レミ族は当初よりローマ軍に親密であったから、シーザーは西暦前57年春、当地で宿営し、ガリア・ベルガエ征伐を開始した。(高橋宏幸訳『ガリア戦記』岩波書店 2015、P53を参照のこと)
画像:シーザーの胸像、ナポリ国立考古学博物館
画像:18世紀出版の『ガリア戦記』