6. ビスマルクとの現金の受け渡しの目的で伊藤博文は大急ぎで12月、(表向き米国のナショナル・バンクとの打合せと称して)渡航した。実は、この旅行はヴェルサイユでビスマルクと秘密裏に会合することが真の目的だった。

7. 事態打開に必要な現金の束を目の前にして、伊藤博文はビスマルクの注文をすべて喜んで受諾し、カイゼル・システムの受け入れを書面で認めた。海のものとも山のものともわからない米英の民主主義は無視された。伊藤にとっては「哲学ぬき、理論ぬき」なのであった。日本の天皇制が維持できるかぎりにおいて、プロイセン流の絶対王政が実現すればそれでよかった。それに、この提案を呑めば、彼の犯した大失敗は表面化しないのだ。こうしてこの時点から、日本国はドイツ国の属国となった。言葉を換えれば、伊藤博文は日本国をドイツに売った。

 この対照表より次のような経緯が観察されるはずです。

1. プロイセン王国の持つ極秘政治資金、所謂ヴェルフ基金は、186948日に使用が開始された。1869(会計)年度は、ヴェルフ基金の年間歳入は百万ターレルであったが、管理費を差し引くと、実質的な使用可能額は70%、すなわち70万ターレル程度であったと推定される。

2. 1869年度(18703月までの会計年度)に外務省に割り当てられた金額は26.5万ターレル。どの目的に使用されたか不明である。国家予算ではないから、未使用の場合は全額翌年に繰り越されたと推定できる。

3. 1870年度に外務省割当て分のなかから、バイエルン王国ルードヴィッヒ二世王への賄賂として初年度一時金15万ターレル(翌年より継続的に年間10万ターレル、いずれもホルンシュタイン伯爵の口銭10%を含む)が、1127日ヴェルサイユで主馬頭ホルンシュタイン伯爵に手渡され、彼はこれを121日頃、ホーエンシュヴァンガウ城でバイエルン国王に手渡した、と推定できる。

4. 時を同じくして、11月末、ビスマルクは日本の伊藤博文に(「英国政府の受け止め方」に記す)賠償金£210,000(デランジェ商会分のみ)支払のコミットメントを与えた。伊藤博文は「ビスマルクの介入2-E-1に記したビスマルクの提案をすべて丸呑みしたものと推定される。なお、岩倉使節団の1873年ベルリン滞在時の英国£換算率、

              1ターレル = 3/20英£

を使用すると、£210,000140万ターレルの巨額になる。プロイセン王国外務省は手持ちの秘密資金枠が26.5万ターレルであり、1871年以降は大幅増額になったとはいうものの、140万ターレルには足りない。3ないし5年間の延べ払い条件で決着した可能性もある。          

画像1864当時の南シュレスヴィヒ鉄道の蒸気機関車第九号。

注: 現実的な観点から推察すれば、伊藤博文には賠償金の全額を引受けるという約束をした一方で、ビスマルクは、あの手この手でフレデリック・エマイル・デランジェを値切ったに違いない。彼らはドイツ人同志なのだ。伊藤博文が頼んで駄目でも、ドイツ帝国宰相が幾分かの威嚇(あるいは脅迫)をもって要求すれば、フレデリックはなにがしかの応答は行ったに違いない。(ビスマルクにシュティーバーが付き従っていたことを記憶せよ。また、フレデリックの父親ラファのフランクフルトでの銀行業は当時盛業であり、ビスマルクとの関係も少なからずあったことにも注目せよ。)

画像1870919日プロイセン軍によるパリ包囲が始まり、パリの人達は孤立した。10月、モンマルトルのサン・ピエール広場から重りを落下させつつ出発する郵便気球。飛行士はJules Duruof。パリ包囲中にこのような気球が66個打ち上げられ、102人の乗員と50万通の郵便を運び、そのうち、撃ち落とされたのは8個だった。

ヴェルフ基金との整合性 (1)

8. 金を渡す前に、ビスマルクが伊藤博文に要求した事項は次である。

8-A (日本人の世界認識があまりにもお粗末なので)、日本政界首脳がミッションを組んで、1871年米国・欧州を歴訪し知見を広めること。(伊藤博文が翌年早々、1871228日、欧米各国の状況を専門家が詳しく調査する必要があると建議したのは、ビスマルクと会合した直後のことで、この建議は米国から発信された。)

8-B プロイセンの憲法、政体、軍隊、教育制度、特に立憲(絶対)王政の全面的な採用

8-C プロイセンの海外領土拡大という拡張主義、隣接弱小国の吸収併合システムの採用。(これが岩倉使節団帰国後まもなく、朝鮮・台湾・中国への進出へとつながった。)

9. このようなカイゼル・システムの定着には時間がかかることから、ビスマルクは伊藤博文にたいして長期にわたる政治資金の提供を申し出た。金額についてはわからないが、年間5万ターレル程度ではなかろうか。年間3万ドル程度かな、と筆者は考えている。憲法が存在しない時代の政治は筋道がたたない。夜の待合政治しかあり得ない。だから、明治時代、伊藤博文はビスマルクによって提供された資金を使い、芸者をあげては世論をつくり、政変をでっち上げた。とにかく金と女の絡んだ「卑しい」時代を伊藤博文は作った。彼自身に学識がないとはいえ、ドイツが背後にいるものだから、ドイツの命じるところに従えばよかった。

画像:『ビゴー素描コレクション』2 芳賀徹 他 岩波書店 1989
18 親愛なるレオポルト皇太子の心やさしく忠実なる都市・東京への凱旋行進〔原文ドイツ語〕『トバエ』4号 1887年(明治20年)41

 新橋駅を出て、「ようこそ、親愛なる殿下」と書かれたアーチをくぐる皇太子の前には伊藤博文首相、そのうしろに馬に乗っているベルヘン(テオドール・ホレーベン)独公使。洋装の日本女性が花束・盆栽・ビール等を持って歓迎している。

注:1885年に初代内閣総理大臣に指名された伊藤博文が、騎乗のレオポルト皇太子とベルヘン公使のお先棒を担いで徒歩で先導している。なんという恥さらし。

 明治政府が「帝国主義的無謬性」に従って消し去ってしまった舞台裏の事象を、金融業界の常識と合理性を基本として再構築してみると、前項のようになった。これで明治政府が国民にたいして、(143年間の永きにわたって!)ついてきた「嘘」がかなり明確になり、明治政府の朦朧体の霧がすこし晴れてきた。

 そこでさらに、今度は角度を変えて検討してみよう。「ヴェルフ基金」との時系列的整合性を調査する。「ヴェルフ基金」については、後述する予定となっているのですが、前後を逆転させなければならない不都合はあるものの、ビスマルクがフォン・ブラントにたいして指示した伊藤博文説得工作のうちもっとも大切な「鍵」の部分になっているので、読者にはもうしわけないが、「ヴェルフ基金」の一章だけを逆順で読み合わせていただきたい。

注2:プロイセン王国がシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に勝利し、バート・ガスタイン協定でシュレースヴィヒ公爵領の所有が認められたとき、フランクフルトの銀行エアランゲ・ウント・ゾーン(Das Bankhaus Erlanger & Sohn)は、ビスマルクの指示により、英国人の所有であった南北シュレースヴィヒ鉄道の改組を請け負い、シェレスヴィヒ鉄道を設立した。(1865.03.20)

5. ビスマルクの支援金にもとづき、伊藤博文はレイにたいして賠償金全額の支払をコミットしたので、レイは「示談」に応じた。(128日)

 こうしてみると、ヴェルフ基金の使用の開始は、18701127日、バイエルン国王ルードヴィッヒ二世宛の15万ターラーであったとされている一般論とは裏腹に、金額上からすると、東洋の小島である日本の獲得目的でビスマルクが使用を決断したことが嚆矢であった可能性が高い。つまり、バイエルンのルードヴィヒ二世王への賄賂は二の次だった可能性がある。いずれにせよ、このふたつの賄賂の意志決定がほとんど同時期であったことは証明できる。ただ、日本の案件についてはドイツ側の資料が、(外務省資料が188315日付皇帝命令で)一切合切焼却されてしまったので、今となっては確かめようがない。状況証拠しかない。ひょっとすると英国政府に伝聞資料が残っているかもしれない。ただ、史料を調べていると、バイエルン国王よりもはるかに多額をせしめていた誰かがいたことは確かのように思えてくる。

両事象の時系列的対照表を作成しました。次表を観察してください。