(明治六年、1873)・・・・15日夜大使及び副使はビスマークの招宴に赴きしに、宴後ビスマークは、一行に対し、独逸の国是に就き大要左の如く演述した。

方今世界の各国は表面信義を以て相交はるといへども、実は弱肉強食を事とし、大国は己に利あれば万国公法を固執するも、若し不利なれば翻つて兵力に訴ふるを常とす。予は自ら小国の悲運を体験して憤慨に堪へず、何時か国力を振起せんと欲し、刻苦数十年纔(わず)かに宿志を達するを得たるが、我国が兵を四境に用いたるを跡を見て、漫に誹譏するものどもあれども、これ唯々自主の国権を求め、対等の外交を行はんとせし結果に外ならず。英仏諸国は海外に属地を貪りて威力を擅ままにし、常に他国をして憂苦せしめつつあり。欧州の親睦は未だ得て望むべきにあらず。諸公も必ず内顧自懼の念を禁ぜざるならん。これ予が小国に生れて自らこの間の情偽を知悉するを以て、深く会得する所なり。当今日本の親交国多しといへども、日本の国権を重ずること独逸の右に出づるものなからん。貴国若し堪能の士を要すとならば、その望に応じて周旋すべし。

引用:『伊藤博文伝』上巻 春畝追頌会、19401010日 統正社 P705

18709月、(スダンの戦いでドイツの勝利が決定的となった直後)、ビスマルクの指示により駐日代理公使フォン・ブラントが秘密裏に伊藤博文に接触した、と考えられる。

後年1873315日夜、岩倉使節団招宴の際ビスマルクがスピーチで述べた主旨を熟読すれば、このとき伊藤博文に伝えられたビスマルクの意向は次であったと推察される。



2-A 賠償金の支払は避けられない。賠償金の支払をしなければ、法廷闘争となり、「一任契約」の主旨からすれば、明治政府は敗訴となる。賠償金を払おうが払うまいが、明治政府の失態は全世界に公開され、明治政府は「笑いもの」になる。

2-B 今回の事件は英国政府により巧妙に仕組まれた「罠」である。英国は日本を自国の植民地にするために鉄道という「餌」をつけ、「海関税」という明治政府にとっての唯一の財源を抵当として取上げた。レーが鉄道建設の主幹者となっている事実が、英国政府の「罠」を証明している。

2-C 日本は、1858年に締結した日米修好通商条約により「金の流出」と「インフレーション」により経済的な大損失を食らった。これは、日本の無知につけこんだ米国の罠であった。

2-D 後進国たるプロイセンだけが英米の植民地主義による横暴とその場合の被害者の痛みを理解できる。また、彼らの将来の更なる攻撃を排除する能力を有している。これはプロイセン王国が受けた過去のいくたの苦い経験によるものであり、日本人が経験していないものである。

2-Eプロイセン王国は日本の同盟国になることを希望する。このためプロイセン王国は友情の証として、事態打開のため、日本が支払うべき賠償金を極秘裏に伊藤博文個人に提供する。

2-E-1 日本がプロイセン王国の同盟国となりうる条件は、プロイセンの憲法、政体、軍隊、教育制度、特に立憲(絶対)王政を採用することである。とくに英米の有していない立憲(絶対)王政を採用することである。そのための教育人材はプロイセン王国が派遣する。

2-E-2 金の受け渡しは近日、プロイセンで、ビスマルクから伊藤博文へ直接、現金で行う。

2-E-3 この融通金はプロイセン王国の日本国にたいする友好の徴であるから、贈り物であると考えて貰いたい。返済不要である。

2-E-4 このほかに、(2-E-1を伊藤博文が書面で確約することと引換えに)同盟国を支援するための長期の秘密資金支給を考える。詳細は賠償金の受け渡しの時期に相談する。

1. ビスマルクがこの事態に目をつけた。


諜報合戦

 1870年という年は、普墺戦争の際に引合いにだしたヴィルヘルム・シュティーバー(Wilhelm Stieber)のような諜報員が多数使われて諜報合戦を行っていた時代なのです。考えてもごらんなさい。英国政府が使った国債の元請会社(発行体)の社主はフレデリック・エマイル・デランジェでした。ドイツ人です。同じく国債の発売窓口を務めたシュレーダー商会は実はフレデリック・デランジェが棉花債券を発行した際の親しい仲間で、社主のヘンリー・シュレーダーはれっきとしたドイツ人であったことも我々はすでに知っています。ドイツ人の仲間同士ですから、シュティーバーを使う必要もなかったかも知れません。情報はビスマルクに筒抜けだったのです。


ビスマルクの野望

 ビスマルクが宰相をつとめていたプロイセン王国は、産業革命に出遅れたことが主因で、海外植民地獲得競争にはおおいに出遅れていた。海外へ雄飛したくても覇権基地が海外に一箇所もなかった。しかし、関心がなかったわけではない。日本への進出も当然視野に入れていた。


画像

参考:東京大学史料編纂(へんさん)所の箱石大・准教授らの研究によれば、1868年の文書3点が発見された。内容は次。(出典他に朝日新聞記事

 (1)  731日付で駐日代理公使のフォン・ブラントがビスマルクへあてたもの。「会津・庄内の大名から北海道、または日本海側の領地を売却したいと内々の相談を受けた。ミカドの政府も財政が苦しく南の諸島を売却せざるをえない模様」として判断を仰いでいる。

(2108日付で宰相からフォン・ローン海相あて。「他国の不信、ねたみをかうことになる」と却下の考えを示し、海相の意向を尋ねている。

(31018日付で、海相から宰相への返事。

 幕末の混乱期に日本の北海道をプロイセンに売却する話がもちあがったが、ビスマルクは慎重に対処して断わっている。のちに明治政府が簡単にまるごとビスマルクの手中に落ちて日本攻略は大成功となり、マックス・フォン・ブラントは面目をほどこし、1875年清国大使に昇格した。大出世であった。

 つまり、ビスマルクは、かねてから日本攻略の機会を虎視眈々と狙っていたのである。そこへ千載一遇の好機が巡ってきた。

ビスマルクの介入

画像:ビスマルクが伊藤博文への接近を計ったころ、18708月、普仏戦争の緒戦。アルザス地方リシテンベルの戦い。

「リシテンベルの攻撃」(普仏戦争1870/187118708)
カール・アルベルト・フォン・ショット(1840–1911)
油彩、38 x 65 cm

187089日の夜、三日間の抵抗の後、リシテンベル要塞はヴュルテンベルク軍砲兵隊による砲火のもとに陥落した。大火が発生してこの要塞は壊滅状態となった。

ところがこのあと、ネルソン・レー、エルランジェ商会、シュレーダー銀行、上野景範、伊藤博文の間でどのような交渉があったか、一切の情報は残されていません。

 日本側では、(この事件は伊藤博文自身の失策なのですから)、伊藤博文による報道管制が敷かれ、一切の書類は抹殺されて残っていません。現代の表現法に従えば、「帝国主義的無謬性」の原理に従ってしゅくしゅくと処理されたのです。「帝国主義的無謬性」という定義の意味は、帝国主義の頭(かしら)たるカイゼル(日本の場合では「天皇」あるいは「首相」)は決して間違いは犯さない。そして、間違いのないインペラリズムこそ最高の原理である、ということなのですから、この原理に従わない資料はすべて焼却して抹消されるのです。

2. フォン・ブラントがビスマルクの意を受けて伊藤博文へアプローチした。

 いや、実は英国政府の事実開示を待つまでもない。金融業界の常識によれば、このとき生じた事態は明白であります。次のように事態は展開したのです。

金融界の鉄則によれば、金(かね)の厳格さは「鋼」よりも硬い。破産に瀕した事業家は「棚からぼたもち」というまさかの幸運をひたすら願うものだが、そのような僥倖は決して生じない。なにかの方法で秘密裏に賠償金はデランジェ商会に支払われたにちがいない。

 こういう骨子で提案されたと考えられる。ビスマルクは見事に首尾一貫している。

だが、ビスマルクはこのとき、伊藤博文にたいして、2-Bが嘘であり、かつビスマルクの提供する「友情の証」が英国王室から巻き上げた秘密資金であることを知らせなかった。なにごとも、嘘とトリックで構築する「ビスマルキズム」の本領がここで発揮された。

画像:相馬の古内裏(1845年ごろ) 歌川国芳。描かれているのは、平将門が討ち取られたあと、その娘とされる滝夜叉姫が呼び出した骸骨の妖怪です。滝夜叉姫はこの妖怪を使い、父亡き後、その遺志を果たそうとしました。筆者が観るところ、「(平将門が)血迷った挙句に呼び寄せてしまった妖怪」。

 英国政府の公文書館には情報は残されているはずなのですが、『パークス伝』にも書かれているとおり、1868,69,70年の記録は私信も含めて公開されていないのです。日本国がこの事件を契機として、一挙にカイゼル・システムのなかに組み込まれ、ドイツ化し、合理性に欠けた精神的な貧困化と暗い脆弱さのなかに落ち込んでいき、結局は第二次大戦による敗戦というみじめな結果まで招来したいわば「引き金事件」なのですから、現在のように民主主義国になった日本にとっては、本件にかんしての英国政府による情報公開が日本国の民主化のためには必要不可欠なのです。明治時代の暗い闇はさらけだす必要があるのです。前にもさらりと書きましたが、「とんでもない馬鹿」を一人立てる必要があるのです。