ヴェルフ基金との整合性(2)

画像:『ビゴー素描コレクション2』芳賀徹他、岩波書店 1989 P53

 元旦(お祈り)先生,私をお導き下さい。ナムミョー・ボーレン・ダブツ・アーメン!! 『トバエ』22号 明治2111

大同団結運動で窮地に追い込まれた伊藤が最後にたよるのはビスマルクだと、そのドイツ信奉ぶりを諷刺している。

(日) 御利益を以(もち)まして 病死も致さず 暗殺にも逢己(あわ)ず 兎も角も恙(つつ)がなき結光なる初春を迎へ 誠に難有仕合 猶(なほ)今年も御見捨て無く 相変(かわら)ず御ひいき御引立の程願候(ねがいたてまつりそうろう) 南無妙法蓮陀仏 アーメン

P723

 岩倉の憂慮と公の忠言

 岩倉は羅馬到着前後に、風土飲食の変化より多少健康を害し、気分も勝れざる様子なりしが、一日公に向ひ、これまで各国の状況を視察したるも、英、米、独、佛の如き強大国はいふに及ばず、二流三流の国々といへども、その文化の隆盛なる我国の追求し能はざるほどに懸絶し居れば、我等如何にこれを研究したればとて、到底これを実地に採用すべき見込なし、かくては欧米巡視の使命を辱かしむるに至らんことを恐るとて、頗る悲観に傾ける意中を述べた。公はこれを聞き、そは無用の御心配ならん、閣下の任は唯々その親しく目撃せし事情をその儘に復命せらるゝを以て足れりとするのみ、我国に施設すべき文化の取捨按排等に至ては、自分等及ばずながら駑力を盡すべければ、決して御懸念あるべからずと慰めしかば、岩倉もやゝ安堵の思を爲せるものゝ如く、それより將来の措置に就て絶えず公と懇談した。

 この結果として、伊藤博文は全面的に盲目的にカイザー・システムを受け入れざるをえなくなり、施政方針すべてにおいて、ビスマルクに指示を仰ぎ、ビスマルク政府の指導に従うこととなった。伊藤博文の学歴といえば、UCL(University College London)でわずか4ヶ月の講義を聴講しただけであり、論理的思考もなければ、政治思考も経済思考もなにもない「猿」であったから、ビスマルクに指示されたとおり、カイザー・システムを全面的に受け入れることだけが彼の「身の安全」につながっていると考えたのである。

 つまり、伊藤博文は、使節団長である岩倉具視を差し置いて(岩倉具視には知らせぬまま)、具体的文化施設導入案(カイゼル・システム導入のことです)を使節団の日本出発前から、取り決めていた様子がはっきり伺える。

このような団体を引率する発案者というものは、出発前にあらかじめ、話のおちどころをしっかりきめているものなのです。この場合の伊藤博文は、18711月ビスマルクと(秘密裏に)会合してビスマルクに指示されていた通り、先ず、使節団を海外視察させ、次にドイツのカイゼル・システムへと誘導せよ、という命令を受けてその通り行動していたに過ぎません。

 さて、筆者がなぜこのような結論にいたったか、疑問に思われるかたもおありになろうと思うので、根拠の一つを開示しておきますが、『伊藤博文伝』上巻のローマ滞在中の次の記述のなかで、伊藤博文はついポロリと本音を漏らしてしまったのです。

このC千円札1963年に発行され、1984年にD千円札(夏目漱石)が発行されるまで、実に21年間も発行され続け、最終的に支払停止となったのは、1986年であった。日本政府は天皇絶対性へのノスタルジア(カイゼル・システム)から逃れることが出来ず、紙幣を使って23年間も民主主義に反抗した。

第二次大戦後、日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、1952428日に全権を回復したが、わずか10年で日本政府はカイゼル主義への復活を宣言したわけである。当時の大蔵省(田中角栄)は、伊藤博文をして、日本に「議会制度」を取り入れた偉人としているが、伊藤の導入した議会とは、枢密院を含む議会制で、天皇絶対性を標榜していた。天皇の意向が最終的に正しいとする王権神授説を体現するものであった。

米国でこのような政治思想の異なる人物を利用する紙幣が発行されるときは、米国政府は10ドル紙幣のアレクサンダー・ハミルトン(初代米財務長官)の代わりにナバホ族の酋長マニュエリートの肖像を使ったに違いない。

 これを第二次世界大戦後の日本とくらべてみよう。

 1945815日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。92日、アメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において対連合国降伏文書への調印がなされた。日本の国はこれから1951年(昭和26年)98日サンフランシスコ講和条約まで連合国軍の占領下に置かれた。この間、アメリカ軍が統治したわけであるが、プロイセンとアメリカ合衆国の差がここに現われる。アメリカは直ちに、連合国軍最高司令官総司令部の監督の下に、「憲法改正草案要綱」を作成し、1946年(昭和21年)516日の第90回帝国議会の審議を経て、113日に日本国憲法として公布され、1947年(昭和22年)53日から施行された。電光石火の早業である。アメリカは、国の基本は憲法であると考えるのである。

 残念なことに、伊藤博文は学識がなく、実務経験もなく、ビスマルク提案のなかにふくまれていた「嘘」(「ビスマルクの介入」2-Bを参照せよ)を見破ることができなかった。

 この結果は、英国、米国、フランスの諸国から、「伊藤ははした金で自国をドイツに売った」。無教養な「猿」はいまや「売国奴」になったと評価された。この評判を知らなかったのは、報道管制下にあった日本国民だけであった。福沢諭吉だけが見破っていたが、彼はこれを表沙汰にしなかった。結果として日本は暗闇世界に落ち込んでいった。英国、米国が声高らかに主張する「正義」という概念を理解することができない、価値観念のない社会ができあがった。「金」で身を売ったからだ。

写真:ローマのサンタンジェロ城

画像:ナバホ族の酋長マニュエリート

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画像C千円札

 勿論アメリカが作った憲法であるから、アメリカの哲学で統一されている。即ち、平等と自由、生命の尊重と幸福の追及の四本が柱になっている。基本はジョン・ロックである。理念の表現はトーマス・ジェファーソンである。はっきりしている。

 ところが、アメリカ占領軍が占領当時、日本国の脳味噌である東京大学と京都大学の掃除をして脳味噌の入れ替えをしておかなかったから、ソフトとしてのカイゼル・システムがそっくりそのまま今に残ってしまったのだ。だから大学では(中村元が先頭に立って)帝国主義カイゼル・システム(カントとその亜流、西田幾多郎)を教え、実社会では民主主義で行動するという二律背反ならぬ、二律同化システムが強制された妙ちきりんな事態になったのだ。思考は帝国主義、行動は民主主義になっている。

ここにカイザー・システムの特徴の一つがあらわれている。「憲法の無視」あるいは「憲法理念の欠如」である。これも現在の日本に受け継がれている。

政治はまず施政基本要項を建て(憲法を定め)、これにもとづいて粛々と取り進めていくものであるが、かれは、憲法を無視して後回しにした。施政方針がなにもないままに、政治が行われた。プロイセン憲法のコピーにすぎない帝国憲法が施行されたのは、なんとそれから20年後の1890年(明治23年)1129日である。この間実際には、ビスマルクから渡された秘密資金を遣い、「夜の待合政治」で明日の政治が取り決められた。この「待合政治」の伝統は現在の日本の政治世界にそのまま継承されている。はっきり言って、憲法などどうでもよいのである。そういう憲法無価値評価が(プロイセンによって)日本人に植え込まれた、と考えるべきである。

画像:『ビゴー素描コレクション』2 芳賀徹他、岩波書店 1989 巻1(発行日は67日)
86 現代日本(政府の料理)「どうぞ味見を」……(ヤ,ヤ,ひどい臭いだ(こんなひどいものが食えるか!!)」
  (鍋:政府,湯気:ドイツのソーセージ,樽:ドイツのビール,左下:サワークラウト(塩漬キャベツ)) 『トバエ』 21号 明治201215日号

86  憲法や陸軍軍制でドイツ指向を強める政府は、さらにソーセージやビール(後方に見える)といったドイツ食品輸入促進で国民をドイツ漬けにさせようとする魂胆であると諷刺。

東京ではもちろん、地方に遊説した場合でも「政治は夜、動かされる」との言葉通り、夜な夜な大臣連中は新橋、赤坂、全国各地の料亭で芸者をあげて政治談議、密談を繰り返し、気に入った芸者を水揚げする、連日そのゴシップを新聞は派手に報道するといった具合で、隠さずに派手に遊びまわる伊藤の夜の生活がマスコミの格好のえじきにされた。

出典:女に殺された伊藤博文 前坂俊之