澤村滋郎→木村盛和1921〜2015→佐々木禅、他陶芸家により油滴釉は1世紀の時を経て伝承・進化しています。

「大阪市立東洋陶磁美術館所蔵」
【国宝・天目茶碗】

関白・豊臣秀次→西本願寺→京都・三井八郎右衛門→若狭・小浜酒井家代々→安宅家→住友グループ→大阪市に寄贈
下記、澤村滋郎氏の論文と、山崎 一雄氏の論文(釉薬と胎土の成分含有量を掲載)、を元に天目作品を試みる陶工は世界中にいて、本家中国でも再現ができずにいます。謎に包まれたままの技法で、澤村氏は「運」とまで記述しています。

国宝のそれは天目時雨とも呼ぶべき、口縁近くは細かく、腰付近は大きく、底付近は時雨ていますね。口縁下に二重の線も見て取れます。天目の一粒々は色も形も輝きもそれぞれが違っています。

口縁の金覆輪と内部口縁下の二重線絵付けは後からの造作ですね。焼き入れの回数が3回なのか4回なのか分かりませんが、青磁で焼き上げその後の焼き入れで変化したのか、素地に釉薬被りで焼き上げたのかは謎です。

酸化焼成か還元焼成か、その組み合わせか、試行錯誤の叩き割りの業にエネルギーを燃やす作家には頭が下がる思いです。この「国宝」を眺めていると一見、底部分は還元焼成で青がかりが見られ、上部につれて酸化焼成が進んでいますね。

上部は鉄釉薬が濃いのかもしれません。釉薬を塗るというより、バケツの釉薬に浸して上げる時に茶碗上部は釉薬の被り量が多くなったような感じです。その後、台に置いた時に碗中央部に釉薬が逆流して中央部の釉薬量が多くなったのでしょうか。

或は中央部のみ刷毛塗りで、粘度による垂れ幕直し塗りをしたのでしょうか。明らかな釉薬量の差が天目斑の大きさで推察されます。前記の木村盛和氏は釉薬にエメラルドや隕石を用いたそうです。

関白秀次の切腹後、豊臣家には老齢の秀吉、幼少の秀頼しかいなくなり、大阪夏の陣で滅亡。秀次さえ存命であれば日本のその後の歴史も大きく変わっていたことでしょう。「国宝・油滴天目」には持主遍歴の刹那と、永遠を手に入れた「名物」が織りなす、物の哀れ、壮大なドラマが映り込んでいます。

自然・芸術・人生において「もののあはれ」が情緒として人を触発する時に、美意識は平安京の「歌」のやうに「価値」として観賞者の精神作用を倍加させていくのでしょう。豊かになった精神はやがて「排他的所有」を欲します。



以下澤村滋郎論文

a 施釉厚ければ大なる油滴斑を生じ,氣泡痕の凹みを殘し易い.施釉薄ければ油滴斑は小であるが,燒 成火度が少しく高くなる事により,又 は還元燒成により消失し易い.素地の凹凸による釉の厚薄が油滴紋の大さに影響する.故に素地の形によつては刷毛,筆で釉を塗布するよりも,注 ぎかけ又は突込み施釉の方が都合が良い.

b 酸化第二鐵のみによつては暗褐地釉に赤褐(小豆色)斑が現れる更に小量の炭酸マンガン(2〜5%),又は酸化コバルト (0.6%内 外)を添加すれば釉上に銀油滴が現れる併し,還元 により總體に變化し,淡くなり,油滴斑は黄褐色に傾 き, 時には淡い光彩(ラ スター)を發する.

c これ等の釉は流動性が小でSK 11に還元燒成するも流動の形跡を認め難い支那渡來の天目茶碗中,淡灰色器質素地(所 謂河南天目系の) に施された油滴釉には流動の形跡は認められない樣であるが,濃褐器質素地の珪盞と稱せられるものと同 じ種類の素地の碗 に施された油滴釉は,釉 紬 こした ゝかなる釉溜 りのあるものが あり,その釉調の一因子をして居 るが,か ゝる釉は試驗者の經驗には殆ど見當 らぬのである.更に,主として建盞素地破面を見るに,黒褐なるは表層のみにして部は灰であ り, 又この手の素地に施された或る釉(柿 釉-後 説)の釉調を見る に,明 かに還元に傾いた燒成によるものである.然 るに上記の 各釉にあつては還元燒成によつては建盞にあるが如くに顯著な油滴斑は現はれぬ.殊に建盞に見るが如 く流動性大なる釉に於ては更に油滴の出現の東ない事は,本實驗に於て,石灰分の加乃至長石の減少に從ひ,流 動性は大になつても,油 滴斑の出現が不安定になる事實にしても明かである.即ち,建盞油滴釉に就てはそれが偶のものにあらざるやの感あり,如何なる理由に基くか未だ審かにせぬのである.

d 油滴斑は燒成火度が低い程その形が不規則,不揃ひであるが,釉の熟成後固化する迄の時間が長ければ,或は燒成火度が稍高くなれば,圓形に揃つて來る燒過ぎれば油滴斑は明瞭さを缺き,送に消失する.